女が階段を上る時('60)  成瀬巳喜男   <女が手に入れたもの、失ったもの>

 「秋も深い、ある午後のことだった。昼のバーは、化粧をしない女の素顔だ」
 
  銀座のバー、「ライラック」の雇われマダムである圭子のモノローグから始まる映像は、化粧をしない女たちの昼の饒舌から開かれる。マダムの不在なその店で、ホステスの一人が店の客と結婚し、それを祝う内輪の集まりの中に、如何にもホステスらしい会話が飛び交っていた。
 
 「でも変な気がするわ。好きでバーに来たミユキが一番早く結婚するなんて」
 「そりゃあね、何て言ったって、女の終着駅は結婚よ」
 「あたしの終着駅はマダムよ。どうせバーで働くなら、すごーくお金貯めて、お店持つの」
 
 一方、マダムの圭子は、韓国人の経営者に売り上げの急激な落ち込みを責められていた。その理由は、最大のパトロンともなっていた利権屋の美濃部が店を離れたからである。彼は「ライラック」のホステスをしていた若いユリに新しい店を持たせて、そこで稼がせていたのである。
 
 「今月も売り上げ減るようでしたら、新しいママさんに代わってもらいますよ。お体裁いけません。ユリさん、体張っています」

 明らかに、韓国人と思われるような発音で日本語を操る経営者は、営業に貪欲さが見られない圭子に対して、美濃部をもう一度店に呼び寄せるような営業を求めたのである。
 
 店の経営者の最後通告を不満げに受けた、男と女の会話。マダムの圭子と、マネージャーの小松である。
 
 「馬鹿にしてるわ!いかにも体を張れみたいな言い方じゃない」
 「しかし本当にここん所、ガタンと落ちたからな」
 「嫌よ。あたし電話なんてかけないわよ。美濃部さんに限らないわ。今晩、来て下さらないなんて電話、一度もかけたことないもん・・・別にお高くとまっている訳じゃないけど、嫌なのそういうこと。あたしだって毎晩、好きでもないお酒を、相当飲んでいるわ。それだって体を張ってることじゃないの」
 「結局、早く自分の店を持つことさ」
 「100万ばかり落ちてないかな」
 「ママ、無理することないぜ。ママだったらどこだって雇うよ。銀座は700軒のバーがあるんだ」
 
 店への帰路、圭子は小松に不満をぶちまけた。

 小松は圭子をマダムに推薦した男である。彼には圭子の良さが分っている。圭子も、そんな小松に心を許していた。そんな深刻な会話を、救急車のサイレンが突然裂いた。

 店に戻った圭子は、他のバーのマダムの自殺の事件を聞き知って、他人事ではないと思わざるを得なかった。自殺したマダムは、三角関係の縺(もつ)れと借金が原因で追い詰められていたらしい。彼女の年が43歳であることを誰かが話題にしたときの、二人のホステスの会話。
 
 「女も年とると嫌ねぇ」
 「養老院に行くお金だけは貯めておかなくっちゃ」
 
 ホステスたちの視線には、世俗の不確かな移ろいの中を、自分がどう突き抜けていくかという現実的テーマしか捕捉されることはないのである。
 
 「ビジネスガールが帰る頃、銀座へプロが出勤してくる」(圭子のモノローグ)
 
 夕方から夜を職場とする者たちの戦場が開かれる。それぞれの準備に余念がないホステスたちの日常が映し出されて、まもなく、生きるための戦争が銀座の街の其処彼処で炸裂するのだ。

 「そして夜が来る。あたしは階段を上がるときが一番嫌だった。上がってしまえば、その日の風が吹く」(圭子子のモノローグ)
 
 女は細い線のような暗い階段を上っていく。扉を開けると、そこには既に男が待っていた。小松の連絡によって、美濃部が久し振りに「ライラック」に顔を出したのである。
 
 「この店は活気がないな・・・しかしな、沢山の会社の経営を指導してきたから分るが、会社でもバーでも下り坂のときは何となく活気がないものだ」
 「そう、じゃあユリちゃんのお店は活気があって?」
 「あるとも、全然違うよ。嘘だと思うなら行ってみるか?」
 
 美濃部の明け透けな指摘をさり気なく交わしたが、圭子の心は穏やかではなかった。彼女はそんな思いを抱えたまま、ユリの店を訪ねたのである。

 ユリの店は、美濃部の言うように活気があった。

 男たちの体臭が店内を埋め尽くしていて、いかにも若きマダムの褪せない魅力に取り憑かれた男たちの欲望が、そこに剥き出しになって暴れている。ユリの店の隅に座る圭子の視界に、馴染みの男たちの顔が侵入してきた。それこそが、「ライラック」の不振の原因を示す現実の姿であった。

 まもなく、覚悟を決めた圭子は「ライラック」を離れ、別の店に移った。

 無論、雇われマダムである。店には色々な客が顔を出していた。その中に、圭子が密かに思いを寄せる銀行の支店長の藤崎もいた。その圭子に思いを寄せる関根という男が、足繁く圭子の店に現われて、その素朴で人好きのするキャラによって、ホステスたちの好感度を高めていた。
 
 「11時半から12時、この界隈で働く1万5,6千の女性がどっと家路に就く。車で帰るのが一流、電車で帰るのが二流、客とどこかへしけこむのが最低」
 
 藤崎を車で送った後の、圭子のモノローグ。藤崎は、圭子にとって一流の常連客だったのである。
 
 圭子もまた家路に就いた。待つ者のいないアパートでの、圭子のモノローグ。
 
 「アパートへ帰ると、殺して飲んでいた酒の酔いが一遍に出る。部屋代が3万円。一人暮らしには贅沢だが、これも銀座という夜の社交場で働く、あたしたちのアクセサリーの一つだ。高価な衣装や香水と同じように・・・」
 
 圭子は、昨夜酔いつぶれたホステスの順子を、自分の部屋に泊めた。
順子との朝の会話の中で、圭子は自分の過去を語り出す。映像で初めて見せる主人公の素顔の一端が、そこで語られるのだ。
 
 彼女は交通事故で夫を喪って、自活のためにホステスを選んだのである。この時代、手に職を持たない女が自立して生きていくのは、想像以上に大変なことだった。水商売に入るという手段は、女にとって決して安直な選択ではない。圭子もまた、覚悟を持ってこの世界に入ってきたのである。

 夫を喪ったとき、圭子は夫の骨壷の中にラブレターを密かに入れたという逸話を、順子は圭子に確かめた。圭子が酔いつぶれて小松に語ったという話は、「ライラック」時代から語り草になっていたようだ。その話を笑って否定した圭子だが、それは照れ隠しに過ぎなかった。彼女が、いかに夫を愛していたかを物語るエピソードである。同時に、それは簡単に誘惑に負けない女の内側に潜む情愛の強さを表していた。
 
 「結局、女は簡単に許しちゃ駄目だと思うの。とにかく今日までそれだけを通して生きてきたの。別に純潔をどうこうって訳じゃないけど、一度崩れたらそれこそ止め処がなくなっちゃうような気がするわ。あたし、臆病なのかも知れない・・・」
 
 恐らく彼女は、複数の男を愛せないタイプの女なのだろう。そう思わせるエピソードであった。
 
 そんな女が、今、誘惑に乗っている。

 関西実業家の郷田に料亭に呼ばれて、「店を持たないか」という美味しい話を聞かされたのだ。その話に心を動かされた圭子は、しかし郷田が差し出す金を前借することを躊躇し、当然ながら、相手の老人に体を許すことをしなかった。

 郷田の話を小松に伝えて、圭子は自分の店を持つことを真剣に考え始めていた。その方法は、圭子の店に通う信頼できる常連客から奉賀帳(祝い金などを集めて、それを書き込む帳面)方式で、出資金を募ること。早速、小松の店捜しが始まったのである。
 
 
(人生論的映画評論/女が階段を上る時('60)  成瀬巳喜男   <女が手に入れたもの、失ったもの>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post.html