レナードの朝('90) ペニー・マーシャル<「爆発的奇跡」―― ロマンチシズムへの過剰な傾斜という凡作の極み>

 1  隔離施設の中の治療的試み



 1969年夏 

 ブロンクスにあるベインブリッジ病院。 慢性神経病の患者専門の病院である。

 臨床医の応募のために、セイヤー医師は当病院の面接を受けて、何とか就職できた。

 彼は5年かけて、4トンのミミズから1デジグラムの髄液を抽出する研究していた男。人馴れしていない印象が、彼の一挙手一投足から伝わってくる。

 硬化症、トウレット症候群、パーキンソン病等々の患者を収容している当病院は、「神経難病病院」という名の隔離施設と化していた。

 「治療などありません。ここは庭ですよ。水と栄養をやるだけ」

 これは、赴任早々のセイヤー医師が、同僚となる医師に言われた言葉。

 不断に動き回ったり、意味不明な言葉を撒き散らしたり、といった患者たちの喧騒の世界に、それまでの医師たちがそうであったような適応の仕方で吸収されていくことに対して、ミミズ研究一筋のセイヤー医師は違和感を持ち、彼なりの適応様態を開いていった。

 ルーシーという新しい患者の臨床の中で、セイヤーが投げたボールをキャッチする患者の現実に驚いた彼は、早速、その「成果」を病院のスタッフに報告するが、彼らは、セイヤーの進言を、「反射行動」と決め付けて相手にしなかった。

 「新任で意気込んでいるんだろ」と一笑に付されたのである。

 しかし、セイヤーは看護師のエレノアの協力を得て観察を続けた。

 そして、ルーシーと同じ症状の患者たち15名が、音楽やトランプなどの固有の刺激に反応を示すことを発見したのだ。

 「非定型精神分裂」、「非定型ヒステリー」、「非定型神経障害」などという病名を付与させられていた一群の患者たちを、“定型の何とか”にしようと努めた結果、セイヤーは「皆、1920年代に流行した嗜眠性脳炎を患っている」というデータを基に、「嗜眠性脳炎」と特定したのである。

 当時、「眠り病」と呼ばれていて、幼少時に発症した原因不明の病気を研究していた医師と会って、セイヤーは彼から、自分の力で何もできない当時の患者たちの8ミリを見せてもらって、ほぼ確信に達していった。

 「脳が機能を失ってしまったから、頭の中では何も考えてない」

 このような把握を持つ老医師の確信的断定にセイヤーは疑問を持ち、それを検証するために、相手が投げたボールをキャッチした行為を「反射行動」と決めつけられたルーシーを、改めて実験するに至った。

 その結果、病棟の窓から外の風景を見る彼女の脳内で、「思考」や「感情」の片鱗が窺えたのである。

 セイヤー医師が次に関心を持ったのは、突然の発症のため、11歳の時に学校を退学するに至ったレナードだった。

 「病状は徐々に悪化して、部屋に行くと放心状態で座っているの。それが一時間も二時間も続き、また正常に・・・ある日、勤めから帰るとベッドに寝ていて、“ママ、ママ”と言い続けていた。それが最後の言葉で、あの子は“消えて”しまった。同じ年に、今の病院に入院させたの。正確には、1939年の11月14日よ」

 これは、セイヤー医師に語ったレナードの母の言葉。

 30年間の「眠り」の生活をベインブリッジ病院で送っている中年患者、それがレナードだった。

 セイヤー医師は、以降、「嗜眠性脳炎」と目される患者たちへの「治療」を集中的に遂行していく。ボールのキャッチング、そして、「アリア」などの独唱歌曲を流す音楽療法、等々。

 特定の音楽のみに反応する患者、ナースが支えると歩行する患者、トランプゲームで誰かが最初の一枚を切ると、一斉にそこにいる患者たちが自分のカードを切って出すという、「反射行動」とも言える行動類型が見られ、しかもそこには個人差が認められたのである。

 とりわけ、レナードに思考行動が存在すると予想したセイヤーは、彼に付き切りで、自力で表現できない、その内面世界深くに踏み込んでいった。

 その結果、セイヤーは、リルケの「豹」という詩を愛読していたレナードの過去の記憶と出会うことになったのである。


 
(人生論的映画評論/レナードの朝('90) ペニー・マーシャル<「爆発的奇跡」―― ロマンチシズムへの過剰な傾斜という凡作の極み>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/11/90.html