4分間のピアニスト('06) クリス・クラウス <「表現爆発」に至る物語加工の大いなる違和感>

 この映画にサスペンスタッチの描写が挿入された意味を考えてみよう。

 件の描写が挿入されているラインには、二つある。

 一つはジェニーの養父の「暗躍」であり、もう一つは老ピアニスト、クリューガーの「ナチス体験」である。

 前者は、主人公のジェニーが女子刑務所内で事件を起こして監禁された際、彼女を訪れたクリューガーへの告白によってある程度読解可能になるから、その後の養父の「暗躍」を、観る者がフォローしていく上での支障にはさしてならないだろう。

 だから取り立てて、この養父の「暗躍」をサスペンスラインで括るのは無理があるかも知れない。

 しかし、クリューガーの「ナチス体験」に関しては、その脈絡が非常に判読しにくい展開となっているので、これが観る者を混乱に陥れるネックとなってしまうのだ。

 なぜなら、この体験はクリューガー自身の回想によって、突然、映像の中に現出し、しかもそれが何回かにわたって断片的に挿入されてくるので、結局、ラストシーンに至るまで彼女の「ナチス体験」はその封印を解くことをしないのだ。

 では、「ナチス体験」の描写の意味とは何だったのか。

 大戦時、クリューガーはナチスの病院で看護師をしていたときに、同僚の看護師女性と愛し合っていた。同性愛である。

 しかし、「同志が拷問でハンナの名を吐いた。ハンナは処刑されるはずだった。だけど、執行当日に爆撃で処刑台が爆破されたの。そこで別の方法が取られた。ナチスに首を括られた」(ジェニーに対するクリューガーの告白)のである。

 これだけのエピソードが、それらが本作の中に断片的に挿入されてくるのだ。

 恐らく、処刑寸前にハンナと思われる女性が、暗い密室(地下壕の処刑場?)で、そのブロンドの髪がカットされる後ろ姿のシーンに象徴される描写の読解などは、繰り返し再生して確認しなければ困難だろう。

 奇を衒(てら)ったような件のサスペンスラインは、明らかに映像の構成力、即ち、シナリオ構築の失敗であると言っていい。

 それでも本作が、「ナチス体験」を必要とした理由は何だろうか。

 私は、その理由には二つあると思っている。

 一つは、クリューガーのトラウマの継続性であり、もう一つは、クリューガーがピアノを教授していたハンナのエピソードが欲しかったからである。

 前者は、質は違うが、同様に深刻なトラウマを持つジェニーとの、「心の闇」に関わる悪しき経験による親和動機の形成条件としてリンクさせたかったと思われる。

 とりわけ、孤高の青春を生きているように振舞うジェニーにとって、クリューガーの告白の内実、即ち、ハンナへのピアノレッスンを中断された重い過去を持つ、クリューガーの「才能を生かす使命」という言葉には、自分に内在する、身体が記憶したピアノへの熱い思い入れの心情を溶かすものがあった。

 そして二つ目は、その「才能を生かす使命」によって、一時(いっとき)、クリューガーを疑い、殴りさえしたジェニーの、ドイツ・オペラ座での決勝コンクール出場を決意させる決定的な契機となるエピソードの導入である。

 ドイツ・オペラ座でのコンクールの直前に、出場を放棄しようとしたジェニーに、クリューガーが語った内容は、前述したハンナの処刑に関する重い記憶の開示であり、その後のクリューガーの告白は以下の通り。

 「私はなぜ、60年もここにいるか分る?」

 このクリューガーの言葉は、前述した告白に対して、ジェニーが「私に泣けって?」と「お涙頂戴の告白」を否定する感情を吐いた一言への静かな反応。

 「死者のため?死体愛好家の同性愛者。イカれているわ」

 それでも、こんな悪罵を加えるジェニーに、ピアノの「恩師」のクリューガーは、それ以外にない長広舌を繋いだのだ。

 「酷いことを。よく言えるわね。この日のためにどれほど苦労したか。あなたの態度にも発作にも目を瞑ってきた。刑務所から連れ出した。全て打ち明けた。あなたは平気で私の心を踏みにじる。破滅するのは簡単。どうしてなの?それだけの才能を、なぜドブに捨てるの?ハンナは才能を生かすために努力したかも知れない。人生に他に何がある?生きる目的は何?人の頭を叩き割ること?刑務所で無駄に過ごすこと?世界を破壊すること?人には成すべき使命がある。今の私は何をすべきなのか。恐らく、耐え抜くことね。でもあなたは、あなたの使命は火を見るより明らか。演奏することよ」

 要するに、「ハンナは才能を生かすために努力したかも知れない」のに関わらず、ナチスによってその自由が奪われて、才能が開花する可能性を摘んでしまう人生ほど無駄なことはないと言い放つことで、土壇場に追い込まれたクリューガーは、ジェニーの説得において、余命幾許(いくばく)もない人生を生きる者の「大告白」に打って出たのである。

 その「大告白」を支えたのが、クリューガーの「ナチス体験」であり、具体的には、ピアノを教授した同性愛の対象人格者であるハンナの「才能開花の中断」という、殆ど検証不能で、その場凌ぎの物語であった。

 ある実在のピアニストの話をブログで読んだ記憶があるが、幼少時より自然にピアノに親しみ、その才能を開花させてプロになった人は、ピアノを弾けない状態が続くことに耐えられないらしいのだ。

 恐らくジェニーも、自分の身体に身に付いたピアノの演奏に飢えていた。

 だから、クリューガーの勝負を賭けた最後の言葉に、ジェニーは肯定的に反応したのであろう。

 また、それ以前にクリューガーは、刑務所で自殺した女性の葬儀の場で、机をピアノの鍵盤代わりに弾いているジェニーの才能を認知し、彼女が監禁される原因となった事件を起こした際に、その監禁室を訪ねて、彼女の才能を評価し、それを生かすことの必要性を説いていたのである。

 以下、そのときのクリューガーの言葉。

 「あなたは、どこか傑出している。神様からの贈り物だわ。あなたは嫌な人間だけど、才能がある。あなたには、その才能を磨く義務がある。今日ここでしたことを、あなたがきちんと償うのなら、あなたの力になるわ。良い人間にするためじゃない。良いピアニストにはできても、良い人間にはできない」

 因みに、ジェニーが起こした事件とは、ピアノを習う生徒が自殺して、そこから煙草を盗んだ新入りのジェニーが、刑務所内の少女から恫喝され、喧嘩しようとしているところを看守のミュッツェから制止を受けるという経緯があり、その後、ピアノを習いに来たジェニーを注意するミュッツェを身近にあった椅子を使って重傷を負わせた事件のこと。

 ともあれ、以上が、クリューガーの「ナチス体験」の意味であったと思われる。

 そして、この映画にサスペンスタッチの描写が挿入された意味もまた、このエピソード導入と深くリンクするものであるだろう。

 しかし残念ながら、本作は、回想シーンを断片的に挿入する流行のサスペンス描写の誘惑に勝てなかったのだ。



(人生論的映画評論/4分間のピアニスト('06) クリス・クラウス <「表現爆発」に至る物語加工の大いなる違和感>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/01/06.html