カミュなんて知らない('05)  柳町光男 <風景の断裂 ―― 或いは、公序良俗に阿らない破壊的突破への熱量>

 1  不条理劇の破壊的テーマを前にして



 本作は、「境界」についての映画である。

 「正常」と「異常」、「日常性」と「非日常」、「生」と「死」、「恋愛」と「友情」、「教諭」と「学生」、「アニマ」と「アニムス」、「犯罪者」と「非犯罪者」、「学生」と「社会人」、「健常者」と「障害者」等々の、「境界」の曖昧さについての映画であると言ってもいい。

 このように、二つの世界を分ける「境界」というものが、確かにそれまで存在した現実に対して、特段の疑義を持つ者も少なかったに違いない。

 その「境界」が今、揺らいでいるのである。

 「境界線」が曖昧になっているのだ。

 「境界線」が曖昧になっているために、「境界」の向こうにある世界への越境のハードルがいよいよて低くなっていく。

 ポイント・オブ・ノー・リターンへの内的シグナルが読み取りにくい、このボーダレス化社会にあって、加速的に曖昧になっていく日常風景を普通に繋ぐ時間の中で、いつしか「越えてはならない一線」への近接を常態化し得る状況のうちに溶融され、ルールの厳しい縛りなしに、その危ういゾーンへの越境が果たしやすくなったと言えるだろう。

 しかし、そこにルールの厳しい縛りが劣化したからと言って、決定的な規範の崩壊が顕在化した訳ではない。

 「博君が南アルプスに行っている間に、二人の男の人とキスした。キスしてみたらどうなるか、試してみたかったのかも知れない」

 本作の中で、このような危うい表現が多く見られたが、それをチャペルで恋人に吐露した、劇中劇の助監督を務める女子大生が、自らの「反徳」的行為を正当化している訳ではないのだ。

 現に、彼女は恋人に謝罪し、赦しを乞うていたのである。

 それにも拘らず、モテモテの彼女は、「本命」とも言える学生(劇中劇の監督)とのキスの告白を封印していたが、だからと言って、彼女がファム・ファタール的存在感とは無縁であることは了解し得るもの。

 即ち、「軽薄」と言われる若者たちの倫理観は、彼らなりのモジュールのうちに保持されているが故に、彼らを囲繞する文化の現在の、その外観の風景を、安直に、「境界越え」が常態化している状況という風に決め付けられないのである。

 そんな彼らが、「映像ワークショップ」の指導教授から、実在の事件(豊川市主婦殺人事件)をモデルにした、「タイクツな殺人者」というテーマの映画製作の課題を与えられたのだ。

 「人を殺してみたかった」という課題映画のモチーフは、彼らの「境界越え」の範疇を、当然の如く突き抜けるものであった。

 だから彼らは迷い、悩み、葛藤し、彼らなりの理屈で把握しようとするが、とうてい理解不能な破壊的テーマを前にして、課題映画製作への取り組みが散漫になり、それを監督する立場にある学生スタッフの焦りだけが露呈されるのだ。

 それが特段に問題という訳ではないが、「カミュなんて知らない」という防衛機制を張ることで、生半可な映画知識を振り撒いているだけの「記号性」を露わにさせ、韜晦(とうかい)性とは無縁に「映画」と付き合っているような彼らに、理解不能なテーマと真摯に向き合い、それを自分の人生の問題意識のうちに吸収しようとする熱量を、十全に自給できないのは当然過ぎることだった。

 だから相変わらず、自分サイズの青春を、キャンパスの中で要領良く拾い上げようとする以外に関心が持てないのである。

 「創造」に向かう「前線」が、微温的なキャンパスの内側に構築できないからだ。

 そんな中で開かれた、「タイクツな殺人者」という不条理劇。

 クランクインされ、まもなく舞台は、彼らの青春を小さく閉じ込めていたキャンパスを抜け出ていくことになった。

 キャンパスという、一種の閉鎖系のカウチポテトの「境界」の内側で、自己完結的な青春を謳歌していた若者たちが、課題の遂行という外部圧力によって「境界越え」を果たしたのである。



(人生論的映画評論/カミュなんて知らない('05)  柳町光男 <風景の断裂 ―― 或いは、公序良俗に阿らない破壊的突破への熱量>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/04/05.html