オール・アバウト・マイ・マザー('98) ペドロ・アルモドバル <「自己解放の旅」に収斂させた「グリーフワークの旅」の内実>

 1  グリーフワークの軟着点を予約させる風景の中へ



 「B・デイビス(注1)、G・ローランズ、R・シュナイダー 女優を演じた女優たち。全ての演じた女優たち。女になった男たち。母になりたい人々。そして、私の母に捧げる」

 これが、エンドロールで重なったペドロ・アルモドバル監督の献辞。

 本作の基幹メッセージとも言える、冒頭の献辞で語られているように、本作のテーマが大いなる「女性賛歌」であることは言うまでもないだろう。

 ただ私は、「人生論的映画評論」という視座に立って本作を考えたとき、本作の主人公であるヒロインの生き方の中に、作り手の人間観が集約されていると考えるので、その点についてのみ言及していく。

 「母の昔の写真を見た。半分だけの写真。僕の人生もその半分が欠けている。今朝、母のタンスから写真の束を見つけた。どれも、半分だけ。多分、父だ。父に会いたい。たとえ、どんな人であろうと、母にどんな仕打ちをした人でも、僕にとっては父だ」(画像右)

 これは、本作の主人公であるマヌエラが、バルセロナに旅立つ決定的モチーフとなったものだ。

 彼女は、交通事故で喪った、息子エステバンの存在すらも知らない、元夫であるバイセクシュアルのロラに、その事実を知らせるべく旅立ったのである。

 「17年前にも、同じ列車で旅をした。あのときは、バルセロナからマドリッドへ。逃げるように・・・でも、あのときは一人じゃなかった。お腹にエステバンがいた。彼の父親から逃げる旅。でも、今回はその父親を捜しにバルセロナへ」

 このモノローグにあるように、マヌエラは一度は逃亡するようにして捨ててきたバルセロナに、闇が続くトンネルを抜けるようにして戻っていく。

 それは、「過去への旅」のイメージに満ちたものだったが、トンネルを抜けた先に堂々と聳(そび)え立つのは、2026年に完成すると予定されるサグラダ・ファミリア教会。  

 完成までに300年を要すると言われた大聖堂の凛とした姿形は、未来世界に繋がる「希望」の象徴とも言える。

 唐突に明るく開けたその風景は、彼女にとって、グリーフワークの重要な心理的作業の軟着点をも予約させるものでもあった。


(注1)ベティ・デイヴィスのこと。ジョセフ・L・マンキウィッツ監督の「イヴの総て」(1950年製作)で、女優志望のイヴを付き人にしたために、大女優の座を脅かされる主役のマーゴ・チャニングを演じた。本作では、ヒロインのマヌエラが、息子の交通事故死の原因となった大女優のウマ・ロッホの付き人となり、更に、かつて素人劇団で「欲望という名の電車」のステラを演じた経験から、大劇場でのステラの代役を務めるというエピソードが挿入されていた。また、G・ローランズとはジーナ・ローランズ、R・シュナイダーとはロミー・シュナイダーのこと。



(人生論的映画評論/オール・アバウト・マイ・マザー('98) ペドロ・アルモドバル <「自己解放の旅」に収斂させた「グリーフワークの旅」の内実>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/98.html