道('54) フェデリコ・フェリーニ  <「闇夜」、「浜辺」、そして、「神から遠き者」の嗚咽>

 1  「相互の共存性」を求める者の心情世界に近づいて



 「『道』は非常に根深い対立、不幸、郷愁、時の流れ去る予感などを語った映画で、一つ一つが社会問題や政治的責務に還元できるわけではなかった。だからネオリアリズムの熱狂に支配されていた時代に、退廃的で、反動的な否定すべき映画とされてしまった」(「フェリーニ、映画を語る」フェデリコ・フェリーニ、ジョヴァンニ・グラッツィーニ著 竹内博英訳 筑摩書房

 このフェリーニの言葉に端的に表れているように、この「La Strada」(道)という原題を持つあまりに著名な映画は、イタリアに起こったネオリアリズムの巨大な支配力と明らかに切れている。

 なぜならフェリーニは、そこに、「神に近き者」(以下、「近き者」、または「女」)と「神から遠き者」(以下、「遠き者」、または「男」)という人格イメージを造形しているからだ。

 「近き者」の名をジェルソミーナ、「遠き者」の名をザンパノと呼称し、この命名の内にも、彼らの人格イメージに即した象徴性を被しているが、本稿では固有名詞は捨てる。

本来、出会うべきはずもない両者が、それぞれに抱えた事情(「パン」と「大道芸のサポーター」のトレード)によってクロスし、どこまでも続く「細々とした白い道」をアメリカ製の幌付きオート三輪に乗って、大道芸人の旅を続けるのだ。

 知的障害を持つ「近き者」である女は、涙を見せる母親から、「パン」の問題の故に、「大道芸のサポーター」の問題を抱える「遠き者」に対して「人身御供」(ひとみごくう)に出されるが、芸も食事も相手に満足させ得ない女は、「遠き者」のビジネスの強力なサポーターにはなり得ず、その度に、折檻される日常性が繰り返されていく。

 「遠き者」は確かに、たまたま宿泊した修道院から盗みを図る小悪党だが、それ以上に、自分の思いを相手に丁寧に伝えられない不器用な男だった。

 「私が何を言っても感じない」

 そんな男(「遠き者」)の粗暴さと勝手さに耐え切れず、「もう、私帰る」と言い放って縁を切った女(「近き者」)は、偶(たま)さか出会った「神の意を伝えるメッセンジャーとしての道化師」(以下、「道化師」)の二つの重要な助言によって、再び、「遠き者」との大道芸人の世界に戻っていく。

 危険な綱渡り芸人であるが故に、自分の近未来の死を予言していた「道化師」が、女に語ったこと。

 それは、二つの決定力のある言葉。

 その一つ。

 「多分、彼は君が好きなんだ。彼は犬と同じさ。話したくても、吠えるしか能がない。哀れな男さ。でも、奴には君がついている」

 もう一つ。

 「どんなものでも何か役に立っている。この石でも、何かの役に立っているんだ。神様だけが知っている。人がいつ生まれ、いつ死ぬか。この石もきっと、何かの役に立っている。無用のものなどない。君だってそうだ。そんな頭でも・・・」

 「近き者」は、この言葉によって、「遠き者」は、単に自分の思いを相手に丁寧に伝えられない不器用な男であると信じたかったのである。

 映像は、感情表現する際にも、「話したくても、吠えるしか能がない」男の不器用さを、そこに特段の嫌みも被すことなく記録していく。

 「遠き者」は、何の役にも立たない「近き者」に対して、単に下半身の処理の相手としてではなく、「安らぎ」の感情をも抱懐していたが、そんな感情の認知も覚束ないような男は、当然、それを女に伝えることができないだけなのだ。

(人生論的映画評論/道('54) フェデリコ・フェリーニ  <「闇夜」、「浜辺」、そして、「神から遠き者」の嗚咽>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/03/54.html