欲望のあいまいな対象('77)  ルイス・ブニュエル<「自己完結点」を持ち得ない、無秩序なカオスの世界に捕捉されて>

 1  欲望の稜線を無限に伸ばして疲弊するだけの人間の、限りなく本質的な脆弱性



 アルカーイダのテロネットワークの存在を見ても分るように、いつの時代でも、テロの連鎖はやがてテロそのものが自己目的化し、肥大化し、過激化していく。

 本作の中で描かれたテロの連鎖もまた、見る見るうちに肥大化し、過激化していった。

 それは、10代の美女に憑かれた初老の男を翻弄していく、女の振舞いに呼応するようでもあった。

 テロそのものが自己目的化していくように、初老の男を翻弄する10代の美女もまた、金満家の男を翻弄することを自己目的化していったのだ。

 初老の男からの金銭の獲得が目的であったと思わせる、女の当初のモチーフは、いつしか男を翻弄するゲームと化していくのである。

 哀れを極めるのは初老の金満家だが、男自身もまた、その欲望の対象が「セックス」にあったはずのモチーフが曖昧化し、ただ単に、「逃げる女を追い駆ける男」という自己像を作り上げていく。

 貞操帯という名の、最後のバリアに弾かれた男は、最も肝心な場面で欲望を満たすことができないが故に、却って欲望が肥大化し、その肥大化した欲望の対象を限りなく曖昧化させていくプロセスを自己目的化していくようだった。

 対象人格への追走それ自身が、既に男の行為の全てとなっていくのだ。

男もまた、〈性〉の奴隷と化すという、女が仕掛けた究極のゲームのうちに自己の存在証明を果たしているように見える。

 或いは、本作は、金銭などの手段をほんの少し駆使すれば、手に届く範囲に欲望の対象が存在するとき、その欲望の対象への最近接によってもなお、欲望の達成を得られない状況を常態化することで、欲望の稜線を無限に伸ばして疲弊するだけの人間の、限りなく本質的な脆弱性に肉薄する意図を持った作品であるように思えるのである。

 ルイス・ブニュエル監督は、湯水の如く蕩尽するだけの金満家のブルジョアにシンボライズされているように、このような人間の愚かさを、残酷な筆致で描き切る気分を愉悦しているようなのだ。

 だから本作は、二人一役という「ルール破壊」の表現技巧によって、単に、「女性の二面性」を抉(えぐ)り出すことや、「ゲームを捨てられない男の性(さが)の悲哀」の問題にのみ収斂される映像ではないのだ。

 テロの連鎖が自己目的化していく現象も、「セックス」目当ての初老の男の、「欲望の稜線伸ばし」という行為も、そして、そのような男の脆さを操作して愉悦する女の「魔性性」も、何もかも、根っ子において通底している人間存在の悲哀の様態を描き切りたいのである。


(人生論的映画評論/欲望のあいまいな対象('77)  ルイス・ブニュエル<「自己完結点」を持ち得ない、無秩序なカオスの世界に捕捉されて>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/77.html