息子の部屋('01)  ナンニ・モレッティ <悲嘆は悲嘆によってのみ癒される>

 1  「グリーフワークのプロセス」のステージとしての「ショック期」、「喪失期」



 作り手の問題意識と些か重ならない部分があるかも知れないが、私は本作を、「『グリーフワーク』という迷妄の森に搦(から)め捕られたときの危うさと、そこから抜けていく可能性」についての映画である、と考えているので、その把握を基にして言及していきたい。

 本作ほど、「グリーフワークのプロセス」について精緻に描き切った映像も少ないので、この秀作を評価する私としては、映像の限定的な登場人物の心理の複雑で、危うい振幅の様態を、「グリーフワークのプロセス」に則ってフォローしてみる。

 「グリーフワークのプロセス」の第一ステージ ―― それは、「ショック期」である。

 このステージを具体的に要約すれば、家族から愛されていた、息子アンドレアの事故死によって、突然、家族成員の自我を撃ち砕くに足る衝撃が走るというシークエンスに収斂されるだろう。

それが、本作で描かれている「理想家族」が受難した、「対象喪失によるショック期」の始まりだった。

 あってはならない事態に直面した家族成員は当初、一見、冷静に受け止めているように見えたが、それは自我を「感覚鈍磨」させることで、自らの精神状態を無感覚の状態に置き、ギリギリのところで自己防衛を果たしていた心的現象を意味するだろう。

 ところが、この時期は長く続かない。

 次第に、自我の奥深くに封印させようとしても、「対象喪失による浄化」という作業が厄介な事態であることを感受せざるを得なくなる。

 封印させようとしたものが甚大であればあるほど、それが噴き上がっていくときの心的現象は激甚なものになっていくのだ。

 
(人生論的映画評論/息子の部屋('01)  ナンニ・モレッティ <悲嘆は悲嘆によってのみ癒される>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/06/01.html