序 黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画
正直なところ、私は「黒澤映画」があまり好きではない。
それは、小津安二郎や溝口健二、木下恵介、大島渚、篠田正浩、増村保造等といった著名な映像作家の作品がそれぞれの理由であまり好きでないように、私は所謂「黒澤映画」なるものを、自分なりの理由で好きになれないのである。
私にとって、「黒澤映画」は暑苦しくもあり、声高でもあり、そして多くの場合、格好良く描き過ぎるのだ。何よりも彼の作品は、あまりに過剰なのである。
黒澤は何かいつも、これだけは言っておきたいというものを持っていて、それを映像の中で叫んで止まないように思われるのである。そのようなところが、私にはいつまでも黒澤ワールドに馴染めない理由になっていると言っていい。
普通の感覚で、そこに特段の視覚的な描写を鮮烈に刻んでいく手法が、私の皮膚感覚と合わないのであろう。それは単に「好み」の問題である。
それにも拘らず、「黒澤映画」の中に「これだけは外せない」と、私が高く評価し、愛好している作品がある。
多くの黒澤作品の中で、私が最も気に入っているのは三作に尽きる。
それらは、「野良犬」であり、「羅生門」であり、本作の「七人の侍」である。
「野良犬」は時代の息吹を濃密に伝えた傑作であり、「羅生門」は、人間の心の奥に澱む世界を描いた稀有な傑作だった。
そして「七人の侍」は、映画という総合芸術のエッセンスを殆ど全て活用して成功した感のある、娯楽要素ふんだんのリアル時代劇の最高傑作と言うべき作品だった。
何よりも本作は、登場人物の一人一人を、「描写のリアリズム」で活き活きと表現し切った作品だった。
その完成度の高さからいってナンバーワンの黒澤作品だと思うが、スーパーマンの登場を嫌う私の好みからいって、「描写のリアリズム」だけでは、暗い映画館の中で得たその場限りの感動に終わりやすい。だから何度もそれを味わいたいと思わないのだ。せいぜい二回観たら、記憶の彼方に封印されてしまうから困りもの。そこが成瀬作品と決定的に分かれるのだ。
それにも拘らず、三船敏郎という男の、些か過剰だが、しかし存分に魅力的な演技がここでも眩しいくらいに輝いていた。
同時にこれは、「黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画」だったと思える程、一人の映像作家の個性が表出された、極めて個性的な作品だったと言えようか。
また、それは日本映画全盛期に雄々しく立ち上げられた映画史上の、その一つの到達点を示す記念碑的な映像でもあった。私はそう思っている。
正直なところ、私は「黒澤映画」があまり好きではない。
それは、小津安二郎や溝口健二、木下恵介、大島渚、篠田正浩、増村保造等といった著名な映像作家の作品がそれぞれの理由であまり好きでないように、私は所謂「黒澤映画」なるものを、自分なりの理由で好きになれないのである。
私にとって、「黒澤映画」は暑苦しくもあり、声高でもあり、そして多くの場合、格好良く描き過ぎるのだ。何よりも彼の作品は、あまりに過剰なのである。
黒澤は何かいつも、これだけは言っておきたいというものを持っていて、それを映像の中で叫んで止まないように思われるのである。そのようなところが、私にはいつまでも黒澤ワールドに馴染めない理由になっていると言っていい。
普通の感覚で、そこに特段の視覚的な描写を鮮烈に刻んでいく手法が、私の皮膚感覚と合わないのであろう。それは単に「好み」の問題である。
それにも拘らず、「黒澤映画」の中に「これだけは外せない」と、私が高く評価し、愛好している作品がある。
多くの黒澤作品の中で、私が最も気に入っているのは三作に尽きる。
それらは、「野良犬」であり、「羅生門」であり、本作の「七人の侍」である。
「野良犬」は時代の息吹を濃密に伝えた傑作であり、「羅生門」は、人間の心の奥に澱む世界を描いた稀有な傑作だった。
そして「七人の侍」は、映画という総合芸術のエッセンスを殆ど全て活用して成功した感のある、娯楽要素ふんだんのリアル時代劇の最高傑作と言うべき作品だった。
何よりも本作は、登場人物の一人一人を、「描写のリアリズム」で活き活きと表現し切った作品だった。
その完成度の高さからいってナンバーワンの黒澤作品だと思うが、スーパーマンの登場を嫌う私の好みからいって、「描写のリアリズム」だけでは、暗い映画館の中で得たその場限りの感動に終わりやすい。だから何度もそれを味わいたいと思わないのだ。せいぜい二回観たら、記憶の彼方に封印されてしまうから困りもの。そこが成瀬作品と決定的に分かれるのだ。
それにも拘らず、三船敏郎という男の、些か過剰だが、しかし存分に魅力的な演技がここでも眩しいくらいに輝いていた。
同時にこれは、「黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画」だったと思える程、一人の映像作家の個性が表出された、極めて個性的な作品だったと言えようか。
また、それは日本映画全盛期に雄々しく立ち上げられた映画史上の、その一つの到達点を示す記念碑的な映像でもあった。私はそう思っている。