普通の人々('80)  ロバート・レッドフォード <自我を不必要なまでに武装化して――或いは、グリーフワークの艱難さ>

 序  骨の髄まで生真面目な筆致で貫徹した作品



 この骨の髄まで生真面目な筆致で貫徹した作品を、アメリカの著名な映画俳優が片手間で作った映画であると見てはいけない。

 これは紛れもなく、一人の有能な映像作家による作品なのだ。

 片手間どころか、この映像で表現されたものの質の高さは群を抜いていた。その繊細で精緻な描写の表現力に、私はただ舌を捲いた。

 これほどの映像を作り得る能力を持つ男が、一貫してスター俳優として映画出演を重ねていたのは、このような作品を世に出したいがための制作費稼ぎであったことを、私は改めて確認した思いである。

 この映画に於けるその傑出した心理描写の見事さは、とてもこれが、アメリカで作られた作品であると思えないほどだった。

因みに、この監督が「普通の人々」を撮っただけの人物でないことは、その14年後に、「クイズショウ」という秀作を世に出したことでも証明済みである。(画像は、本作でアカデミー監督賞、作品賞等を受賞したレッドフォード監督)



 1  父と息子が取り残されて



 ―― そんなロバート・レッドフォード監督の処女作である「普通の人々」のストーリーを、詳細に追っていこう。


 静かな聖歌隊の音楽が流れて、一人一人の健康的な高校生の表情が次々に映し出された後、突然、映像は悪夢にうなされた少年の表情にシフトした。その表情の主は、聖歌隊の最後にその力強い歌声を発していた少年だった。

 夫婦が映画を観て、夜半に帰宅した。

 息子の部屋から光が零れているのを見て、父親は彼の部屋に入っていく。

 「眠れんのか?」と尋ねる父に、首を横に振る息子。
 「本当に?勉強かい?」と尋ねる父に、「イエス」と答える息子。
 「他の医者に行ったら?」と尋ねる父に、「ノー」と答える息子。
 「もう、一ヶ月経ったよ」と父。
 「必要ないね」と息子。
 「あまり無理するなよ」と労わった父は、息子の部屋を出た。

 父の名は、カルヴィン・ジャレット。有能な弁護士である。息子の名はコンラッド。 息子の部屋に立ち寄ろうともしなかった母の名は、ベス。

 家族は、シカゴの閑静な邸に住む中流家庭の様相を見せていた。

 翌朝、腫れぼったい眼で起きて来たコンラッドに、母は朝食を勧めるが、「食欲がないんだ」との言葉に、躊躇(ためら)うことなく「嫌ならいいの」と反応するや否や、「待ちなさい。そのうちに食べるよ」という父の言葉を無視してまで、そこに用意した息子の食事を平気で捨て去った。

 一日の始まりを告げる食卓に、気まずい表情の父と息子が取り残されたのである。

 「食べないと強くなれんぞ」

 息子を気遣う父の言葉に、息子は「食べたくない」と答えるのみ。

 「友だちが来るから」

 一瞬の間(ま)の後に捨てられた息子の言葉に対して、「良かったな」と一言寄せて、父は感情を合わせていく。

 「どうして?」

 息子の突っかかるような反応に対して、父はどこまでもフォローしようする。

 「最近は、お前の友だちとも会っていない」
 
 そんな父の言葉を無視して、息子は家を後にした。


(人生論的映画評論/普通の人々('80)  ロバート・レッドフォード <自我を不必要なまでに武装化して――或いは、グリーフワークの艱難さ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/80.html