1 「職業的牧師」という名の、一人の「凡俗の徒」
本作の主題は、拠って立つ自我の安寧の基盤である物語に亀裂が入ってもなお、その物語に縋って生きていかねばならない男の欺瞞と孤独である、と私が考えている。
物語とは、キリスト教への深い信仰の念である。
物語の主人公は、スウェーデンの寒村の教会牧師。
その名は、トマス。
5年前に愛妻を病気で亡くしていて、現在は、トマスに献身的愛情を注ぐ小学校の女性教諭のマルタが、彼の身の回りの世話をしている。
然るに、キリスト教への深い信仰という物語に拘泥し、信仰熱心だった肝心のトマス牧師は、今ではすっかり変心してしまっている。
その辺りの事情については、ラストシーン近くでの、トマスを愛するマルタにアドバイスした、オルガン奏者の言葉の中で示唆されていた。
即ち、トマスは亡妻への愛情を介して信仰の世界に入り、その亡妻との関係の中で信仰を繋いできたが、その物語が彼女の死によって形骸化され、本来そこに潜んでいたであろう牧師の、人間としてのドロドロとしたエゴイズムが根を張って、今ではもう、義務だけで信仰の世界と繋がる「職業的牧師」の一人でしかなくなったのだ。
その辺りを、主人公である牧師の亡妻が、生前中に夫に残した手紙から検証してみよう。
「関係は終わったわ。証明されたの。愛の欠けていたことが・・・あなたの信仰を疑うわ。宗教的な苦悩を味わった経験がなかったからよ。あなたの信仰は幼稚に見えたわ。特に不可解だったのは、あなたがキリストに無関心だったことよ」
以上は、亡妻からの手紙の要約である。
「祈り」を信じると自負する夫の牧師が、妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す。
彼は亡妻を愛すると言いながら、彼女を最も苦しめた疾病に対して、全く何の対応もしなかったのだ。
こんな男の振舞いのうちに垣間見えるエゴイズムを糾弾するのは容易だが、果たして、「神のメッセンジャーとしての『職業的牧師』」の欺瞞性を安直に糾弾するに足る資格を、無前提に有する「神に近き者」が何処に存在すると言うのか。
妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す「職業的牧師」が、「愛情欠損の輩」であると断じる態度こそ傲慢過ぎないか。
詰まる所、トマスもまた、「職業的牧師」という名の、一人の「凡俗の徒」でしかなかったのである。
2 「神が宿る」小さなスポットの隅で
トマスは牧師としてのオーソリティをギリギリに保持しながら、その心は、真剣に悩む者たちを救う使命感から乖離してしまっていた。
と言うより、トマスの個人的な信仰の能力では、対応できない課題が加速的に増幅されていく事態のリアリティこそ深刻なのだろう。
そのことを象徴するシークエンスがあった。
それは、ファーストシーンでのミサの後、風邪気味のトマスが、信仰熱心なペショーン夫人から相談を受けたことに端を発するもの。
ペショーン夫人は、夫の漁師のヨナスの「心の病」についての相談を、トマス牧師に持ちかけたのである。
「新聞で中国の記事を読み、中国人は憎悪が強いので、核を持つのは時間の問題であり、彼らは失うものはないと言って、夫は毎日塞いでいるんです」
このとき、ヨナスがトマスを凝視した。
しかし、ヨナスの視線を受容できないトマス。
「生きねば・・・」
トマスには、そんな反応しかできなった。
「なぜ、生きる?」
ヨナスは、すかさず反駁した。
答えに窮するトマス。
そこに一瞬、「間」が生まれた。
「牧師さんは病気だ。話は無理でしょう」
そう言って、もう口を開くことのないヨナス。
見透かしているのだ。
数十分後、ペショーン夫人の懇望で教会に戻って来たヨナスは、もう会話を開く気分に乗れなかった。
中国の核の脅威に怯えるヨナスを前に、トマス牧師は暗鬱な表情を湛(たた)えながら、自己の過去の誤謬や懊悩を吐露するが、「汎人類的テーマ」を内化する男が抱える、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に接続する努力が叶う訳がなかったのだ。
「私は牧師として失格だ。自分だけの神を信じた」
トマスは自嘲し、「汎人類的テーマ」を内化したことで怯える相手との関係を、何とか「職業的牧師」の範疇のうちに保持しようとするが、彼自身、「世界救済」に対する問題意識など初めから持ち得ないのだ。
「堕落した牧師」を強調する相手の心を見透かした漁師は、「帰ります」と一言残して、去って行った。
結局、ヨナスへの「救済」に頓挫したトマスは、その直後、「汎人類的テーマ」を内化する男を猟銃自殺させてしまったのである。
無論、トマスの責任ではない。
「世界救済」に対する問題意識を持ち得ない彼に、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に呪縛されるトマスの、底が見えない「心の病」にコネクトする能力を求める方が筋違いだったのだ。
「神は存在しなくてもいいんだ。人生は説明がつく」
これは、トマス牧師がヨナスに添えた力なき言葉だが、紛れもなく彼の本音である。
より複雑化している現代社会に惹起する困難な問題に対して、もはや信仰によって解決可能なテーマは限定的でしかないのだろう。
「神よ。なぜ、私を見捨てる・・・」
このトマス牧師の独り言が、「神が宿る」小さなスポットの隅に捨てられていた。
(人生論的映画評論/冬の光('62) イングマール・ベルイマン <物語に縋って生きる「職業的牧師」の欺瞞と孤独>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/62_04.html
本作の主題は、拠って立つ自我の安寧の基盤である物語に亀裂が入ってもなお、その物語に縋って生きていかねばならない男の欺瞞と孤独である、と私が考えている。
物語とは、キリスト教への深い信仰の念である。
物語の主人公は、スウェーデンの寒村の教会牧師。
その名は、トマス。
5年前に愛妻を病気で亡くしていて、現在は、トマスに献身的愛情を注ぐ小学校の女性教諭のマルタが、彼の身の回りの世話をしている。
然るに、キリスト教への深い信仰という物語に拘泥し、信仰熱心だった肝心のトマス牧師は、今ではすっかり変心してしまっている。
その辺りの事情については、ラストシーン近くでの、トマスを愛するマルタにアドバイスした、オルガン奏者の言葉の中で示唆されていた。
即ち、トマスは亡妻への愛情を介して信仰の世界に入り、その亡妻との関係の中で信仰を繋いできたが、その物語が彼女の死によって形骸化され、本来そこに潜んでいたであろう牧師の、人間としてのドロドロとしたエゴイズムが根を張って、今ではもう、義務だけで信仰の世界と繋がる「職業的牧師」の一人でしかなくなったのだ。
その辺りを、主人公である牧師の亡妻が、生前中に夫に残した手紙から検証してみよう。
「関係は終わったわ。証明されたの。愛の欠けていたことが・・・あなたの信仰を疑うわ。宗教的な苦悩を味わった経験がなかったからよ。あなたの信仰は幼稚に見えたわ。特に不可解だったのは、あなたがキリストに無関心だったことよ」
以上は、亡妻からの手紙の要約である。
「祈り」を信じると自負する夫の牧師が、妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す。
彼は亡妻を愛すると言いながら、彼女を最も苦しめた疾病に対して、全く何の対応もしなかったのだ。
こんな男の振舞いのうちに垣間見えるエゴイズムを糾弾するのは容易だが、果たして、「神のメッセンジャーとしての『職業的牧師』」の欺瞞性を安直に糾弾するに足る資格を、無前提に有する「神に近き者」が何処に存在すると言うのか。
妻の手の湿疹の広がりを恐れ、忌避する態度を示す「職業的牧師」が、「愛情欠損の輩」であると断じる態度こそ傲慢過ぎないか。
詰まる所、トマスもまた、「職業的牧師」という名の、一人の「凡俗の徒」でしかなかったのである。
2 「神が宿る」小さなスポットの隅で
トマスは牧師としてのオーソリティをギリギリに保持しながら、その心は、真剣に悩む者たちを救う使命感から乖離してしまっていた。
と言うより、トマスの個人的な信仰の能力では、対応できない課題が加速的に増幅されていく事態のリアリティこそ深刻なのだろう。
そのことを象徴するシークエンスがあった。
それは、ファーストシーンでのミサの後、風邪気味のトマスが、信仰熱心なペショーン夫人から相談を受けたことに端を発するもの。
ペショーン夫人は、夫の漁師のヨナスの「心の病」についての相談を、トマス牧師に持ちかけたのである。
「新聞で中国の記事を読み、中国人は憎悪が強いので、核を持つのは時間の問題であり、彼らは失うものはないと言って、夫は毎日塞いでいるんです」
このとき、ヨナスがトマスを凝視した。
しかし、ヨナスの視線を受容できないトマス。
「生きねば・・・」
トマスには、そんな反応しかできなった。
「なぜ、生きる?」
ヨナスは、すかさず反駁した。
答えに窮するトマス。
そこに一瞬、「間」が生まれた。
「牧師さんは病気だ。話は無理でしょう」
そう言って、もう口を開くことのないヨナス。
見透かしているのだ。
数十分後、ペショーン夫人の懇望で教会に戻って来たヨナスは、もう会話を開く気分に乗れなかった。
中国の核の脅威に怯えるヨナスを前に、トマス牧師は暗鬱な表情を湛(たた)えながら、自己の過去の誤謬や懊悩を吐露するが、「汎人類的テーマ」を内化する男が抱える、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に接続する努力が叶う訳がなかったのだ。
「私は牧師として失格だ。自分だけの神を信じた」
トマスは自嘲し、「汎人類的テーマ」を内化したことで怯える相手との関係を、何とか「職業的牧師」の範疇のうちに保持しようとするが、彼自身、「世界救済」に対する問題意識など初めから持ち得ないのだ。
「堕落した牧師」を強調する相手の心を見透かした漁師は、「帰ります」と一言残して、去って行った。
結局、ヨナスへの「救済」に頓挫したトマスは、その直後、「汎人類的テーマ」を内化する男を猟銃自殺させてしまったのである。
無論、トマスの責任ではない。
「世界救済」に対する問題意識を持ち得ない彼に、「非日常的な恐怖への被害妄想」の意識に呪縛されるトマスの、底が見えない「心の病」にコネクトする能力を求める方が筋違いだったのだ。
「神は存在しなくてもいいんだ。人生は説明がつく」
これは、トマス牧師がヨナスに添えた力なき言葉だが、紛れもなく彼の本音である。
より複雑化している現代社会に惹起する困難な問題に対して、もはや信仰によって解決可能なテーマは限定的でしかないのだろう。
「神よ。なぜ、私を見捨てる・・・」
このトマス牧師の独り言が、「神が宿る」小さなスポットの隅に捨てられていた。
(人生論的映画評論/冬の光('62) イングマール・ベルイマン <物語に縋って生きる「職業的牧師」の欺瞞と孤独>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/62_04.html