叫びとささやき('72)   イングマール・ベルイマン <「感情吸収」による「和解」の文脈のリアリズム>

 1  非日常と日常が交差し、そこで展開される人間模様



 緩やかな晩秋の陽光が斜めに射し込んだ森の風景は、まるで一幅の絵画を思わせるような自然美を写し撮っていた。

 その森の一画に、いかにもブルジョアの風格を矜持する大邸宅が建っていた。

 舞台は、19世紀末のスウェーデン

 映像がその直後に写し出した大邸宅の空間は、深紅の壁と絨毯(じゅうたん)に囲繞されたけばけばしい彩りによって、人工的な物理感覚を際立たせていた。

 その邸宅に長く住む一人の女性、アグネスは今、末期の子宮癌に冒されていて、召使のアンナが献身的な介護を続けていた。

 そこにアグネスの姉妹(カーリンとマリーア)が見舞いに訪れていたが、激痛による叫びを上げるアグネスの病状が悪化し、遂に昇天してしまう。

 物語は、その邸宅における非日常と日常が交差し、そこで展開される人間模様を描いたもの。

 以下、観る者の魂を打ち抜くようなこの圧倒的な映像についての感懐を、私なりに考えてみたい。

 2  人工空間の中で露わにされた裸形の人格像



 特定的に切り取られたこの人工空間には、権力、暴力、権謀術数といった激しく身体的な要素が悉(ことごと)く剥ぎ取られていた。

 それらは、「前線」で闘う男たちの非日常的な概念であるからだ。

 この人工空間の中で扱われているのは、男たちの非日常の世界を削り取ることで露わにされた、人間の「生と死」や「聖と俗」の問題であり、更に、人間心理の様々に厄介だが、しかしその本質に関わる普遍的な問題である。

 それは、人間の〈死〉の問題に身体的(アグネス)、或いは、心理的に近接した者たち、とりわけ女たち(カーリンとマリーア)の心の深層の問題であるだろう。

 それらは具体的には、憎悪、軽蔑、虚栄、偽善、欺瞞、葛藤、欲情、惰性、倦怠、冷淡、孤独、不安、恐怖などの問題であり、それらが肉親の死に近接したことによってじわじわと、時には直接的に表出されてしまうのである。

 夫婦の不和、姉妹の葛藤が、深紅に彩られた人工空間の中で、その爛れ切った裸形の人格像を露わにしてしまうのだ。

更に、人工空間の中で描かれたのは、アグネスと母親という親子関係に見られるように、死にいく者が逢着した、以下の幻想であるだろう。

 「母は時に冷たく、よそよそしかったが、私は憎まず同情した。今では、母のことが分る。もう一度、会って言いたい。倦怠や苛立ちや、欲望や寂しさが分ると・・・」

 では、深紅に彩られた印象深い映像が表現するものは、一体何だろうか。

 それは恐らく、日常では見えにくい女性の心象風景の、深奥に蟠(わだかま)る感情を象徴したものと思われる。

 「生と死」の問題がリアルに近接し、人間の「聖と俗」が同居する人工空間で露わにされる裸形の自我が、断崖の際(きわ)に追い詰められた者の孤独の極相や、「沈黙」の内に封印された感情が鮮血の赤となってうねりをあげていくのだ。

 本作は、英題の「Cries and Whispers」の通り、「叫びとささやき」。

 この言葉が、映像を閉じていくときのキャプションに使われていた。

 「叫びもささやきも、かくして沈黙に帰した」

 本作のこの最後のメッセージが意味するものは、「沈黙」を破って憎悪を叫びつつ、「和解」のささやきをクロスさせた姉妹の関係も、結局は非日常の人工空間と切れたとき、怠惰を極めた日常に復元するや否や、今までもそうであったような虚栄と偽善、欺瞞に満ちた「沈黙」の時間に帰していくのだろう。

(人生論的映画評論/叫びとささやき('72)   イングマール・ベルイマン  <「感情吸収」による「和解」の文脈のリアリズム>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/02/72.html