お引越し('93) 相米慎二 <他律的な児童期自我から自律的な思春期自我への「お引越」の物語>

 1  「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」、そして「親達の間の敵意」というリスクに搦め捕られた少女



 極めて情緒的な映像に仕上がっている本作は、思春期前期にある12歳の少女が、両親の別居・離婚という「非日常」の状況下で、未だ幼い自我が蒙る複雑で様々な不安感情を自分なりに浄化させ、解決していくことによって、ラストカットに繋がる「セーラー服を着た中学生」に象徴される「自立」するプロセスを描き切った秀作である。

 思春期前期にある12歳の少女が、それまで拠って立っていた自我の安寧の基盤である、「幸福家族の物語」に破綻が生じたとき、少女の「日常性」は加速的に安定感を失っていく。

 本来、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。

 恒常的な安定の維持をベースにする生活過程であるが故に、「日常性」には、それを形成していくに足る一定のサイクルを持つ。

 その「日常性のサイクル」は、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つというのが、私の仮説であるが、しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。

 恒常的な「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。

 逆に言えば、「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからでもある。

 もし、この「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦め捕られた主体が、思春期前期にある12歳の少女であって、「非日常」の内実が両親の別居・離婚という由々しき事態であったなら、そこに生じる「非日常」の様態が、未だ「親」の管理を脱して形成され得ない、非自立的な一次的自我に与える負の影響力は看過し難いだろう。

 鋭角的な三角形のテーブルが巧みに象徴しているように、両親の別居・離婚という由々しき事態によって、少女の自我が蒙るストレスは、或いは、少女のその後の人生に決定的な負荷になるかも知れないのだ。

 因みに、児童発達論を専攻する米のカレン・デボード博士によると、「離婚によって子供にストレスを引き起こす原因」は、「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」、「見捨てられ不安」、「親達の間の敵意」の4点を指摘している(「子どもに注目:離婚が子どもに与える影響」堀尾英範訳)。

 本作において、少女が蒙ったストレスの中で、最も重大な課題であったのは、「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」と「親達の間の敵意」の3点であろう。

 しかし、この4点の指摘の中で、本作の少女に当て嵌まらないのは「見捨てられ不安」である。

 なぜなら、少女は両親から嫌われていないことを確信しているからだ。

 だから、この少女が切望するのは、ただ一点。

 「両親の和解」による「家族の再生」。

 それのみである。

 それのみであるが、「親達の間の敵意」の感情が、深い憎悪の極限にまで尖ったものに爛れ切っていなかったが、「両親の和解」の事態の復元の困難さを、映像は存分に露わにしていくのである。

 しかし、映像を観る者には把握し得ることが、12歳の少女には不分明なのだ。

 だから少女は、「両親の和解」による「家族の再生」を求めて、健気なまでに必死に動いていく。

 これが、映像前半を貫流する物語の流れであった。
 
 
(人生論的映画評論/お引越し('93) 相米慎二 <他律的な児童期自我から自律的な思春期自我への「お引越」の物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/10/93.html