台風クラブ('85) 相米慎二<「閉鎖系の空間」を「解放系の空間」に変容せしめた「思春期爆発」の決定力>

  1  思春期状況に呼吸を繋ぐ少年少女たちを捕捉する、「非日常」の未知のゾーンの危うさ



 本作の基幹テーマは、映像の冒頭のシークエンスのうちに凝縮されている。

 某地方都市の木曜日の夜。

 市立中学校のプールで密かに泳いでいた一人の少年が、たまたま、プールサイドで踊り戯れている5人の女子中生によって悪戯され、溺死しそうになったシークエンスである。

 それは、コースロープを体に巻きつけられ、プールの水を繰り返し飲まされるという、相当に悪質な悪戯だった。

 為す術なく、救いを求める一人の女子中生。

 野球部のランニング練習で、偶然通りかかった被害少年の二人の親友が、事態の深刻さに驚き、必死に蘇生させようとしたが、容易に蘇生しなかった。

 何とか、夏休みに人工呼吸の学習を経験し、それを覚えていた少年が、マウスツーマウスの蘇生法によって、半ば溺死状態の少年の息を吹き返すことに成功したのである。

 まもなく、事故の連絡を受けた担任教諭が急いで駆けつけて来て、5人の女子中生に厳しく説諭して、一件落着というもの。

 このシークエンスが示したもの ―― それは、「日常性」と「非日常」の狭間の往還で揺れる中三生が、悪戯半分の「日常的行為」を逸脱したとき、そのボーダーが曖昧になっていればいるほど、彼らの未成熟な自我が、「非日常」のゾーンに捕捉されてしまうリスクが高いということ。

 即ち、14、5歳の思春期状況に呼吸を繋ぐ少年少女たちが、「非日常」のゾーンのうちに、いとも簡単に「境界越え」を果たしてしまいやすいということだ。

 更に、「境界越え」の先にある、「非日常」の未知のゾーンに搦(から)め捕られてしまうときの、少年少女たちの自己解決能力の脆弱さである。

 要するに、「非日常」の未知のゾーンからの蠱惑(こわく)的で、様々なシグナルに対して、「何でもやってみなければ分らない」という、能動的好奇心と共存する危うい心理が、今にも飽和点に達しつつある程にプールされた彼らの情動を引き摺り出して、それを外部に噴き上げていくには、噴き上げさせていくに足る条件さえ揃っていれば容易であるということだ。

 そのようなナイーブな内的状況を最も尖らせている特殊な時期こそが、「青春前期」のとば口に当たる14、5歳の思春期状況であり、その特殊な状況下で噴出した熱量の供給源が、そこで惹起する「理解不能」の行動様態の継続力を保証してしまうのである。

 そんな難しい時期にある少年少女たちにあって、哀しいかな、自己解決能力の脆弱さを一定程度克服していく時間を持ち得るのが、彼らが社会に自立的に這い入っていくまでの、「青春前期」のとば口に当たる思春期過程の渦中でしかないという制約が、厳として存在するのだ。

 この時期は、自己解決能力を養うモラトリアムであると言っていい。

 だから、ナイーブな内的状況を最も尖らせている、特殊な時期に呼吸を繋ぐ少年少女たちには、多少危うくとも、自己解決能力の脆弱さを克服する契機として、「思春期爆発」を惹起する経験が必要であるばかりか、その「暴走」に立ち塞がるに足る、「仮想敵」である「大人」の存在が必要なのである。

 映像に戻る。

 このとき、マウスツーマウスの蘇生法を遂行した少年だけが、学習された内実を会得していることで、一定の自己解決能力を検証したのである。

 しかし、他の中三生たちは、自分の力で何もできない状況下にあって、ただ狼狽し、時間を持て余して、プールサイドで遊んだりする始末なのだ。

 最終的に、彼らにとって、「仮想敵」である担任教諭に一切を丸投げしたという現実こそが、「境界越え」を愉悦する彼らの、不可避なる思春期状況下の自己解決能力の脆弱さを露呈させるものであった。

 この映像の冒頭のシークエンスは、そこから開かれる「嵐の3日間」の前兆と言っていい。

 自己解決能力の脆弱さを露呈させつつも、このプールサイドに集合した8人の中三生たちの、飽和点に達しつつある情動を噴き上げさせていくに足る条件が、台風という自然災害の襲来によって揃ったとき、少年少女たちは、殆どそれ以外にない自己運動を開いていったのである。

 マウスツウマウスの蘇生法を遂行した少年の名は、三上恭一(以下、三上)。

 そして、その少年と共に、ランニングをしていた中三生の名は、清水健(以下、健)。

 そこにいた5人の女子中生たちの中に、本作で独自の自己運動を開いていく高見理恵(以下、理恵)がいた。

 理恵は三上のガールフレンドであるが、しかし、受験勉強に忙しい三上には、理恵の最近の振舞いが目障りで仕方がなかった。

 更に、担任教諭の名は梅宮。

 「熱中教師」とは無縁な人物だが、少年少女たちの「仮想敵」としての一定の役割だけは果たしていた。

 前述したように、冒頭10分間弱までの物語の展開の中で、「溺死事故」に関わった者たちの自我が抱える危うさや不安心理が凝縮されていて、これが、台風の到来を期待する理恵の思い通りに進行する事態の推移が濃密に絡み合い、台風一過の「大騒ぎ」の後の、退屈極まる「日常性」のうちに流れ込んでいく物語が閉じていくのである。


(人生論的映画評論/台風クラブ('85) 相米慎二<「閉鎖系の空間」を「解放系の空間」に変容せしめた「思春期爆発」の決定力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/85.html