イースタン・プロミス('07)  デヴィッド・クローネンバーグ  <「全身ハードボイルドもどき」の男と、「聖母マリア」の距離が関数的に広がっていくだけの物語>

 1  「全身ハードボイルドもどき」の男と、「聖母マリア」の距離が関数的に広がっていくだけの物語



 本作に関しては、深読みするスノッブ効果は不必要である、というのが私の結論。

 分りやす過ぎる映画だからだ。

 「俺には両親はいません。これまで、“法の泥棒”の掟だけが、唯一の教えでした。俺は15歳で死んだ。 一切の感情を捨てて生きて来ました」

 地下組織への加盟のイニシエーションの場での、物語の主人公のセルフプロモーションだ。
 
  このセルフプロモーション通り、体中にタトゥーを彫り尽くした、本作の主人公である、極めて訴求効果の高い男が引っ張り切る映像構成には、殆どブレがなかった。

 舞台はロンドン。
 
 ロシアン・マフィアに潜入し、随所に、その立ち居振る舞いにおいて、存分にニヒルで、ホモと疑われるほど中性的であるが故に、一層蠱惑(こわく)的な魅力を放射する「全身ハードボイルドもどき」の男と、ロシアの少女をレイプして産まされた赤子を育てる「聖母マリア」(助産師)。

 そして、「全身ハードボイルドもどき」の「スーパーマン性」がフル稼働する、サウナでの「全裸の格闘シーン」(2人のチェチェン・マフイアに襲われて、全裸で応戦する、モザイク処理も希釈な、特化された「見せ場」)に、映像総体の生命線を賭けた「爆轟」(ばくごう=デトネーション)をクライマックスに待機させるフィルム・ノワールの定番によって、観る者の「ブッキング」にきちんと応えることで、訴求効果の高い男が引っ張り切った物語のモチベーションを保証するという、映像構成の王道を一気に駆け抜けるのだ。

 如何にもダークサイドの陰翳を抉(えぐ)り出しかの如き、「映像の奥深さ」のイメージを振り撒くマヌーバーに心地良く乗せられた、刺激情報の操作的な映像構成に味付けを見せたのは、ナイフを使った壮絶な戦争の迫力によって、観る者の皮膚感覚に訴え、痛覚の記憶を経験的に想起させることで、「暴力」への忌避を生む程のリアリティの圧倒的な担保力。

 まさに、そこにこそ、特段の構造的訴求力を高価に値踏みさせる娯楽の本道だった。

 「“私の名はタチアナ。父は故郷の炭鉱で死んだけど、死ぬ前から土に埋もれていた。私たちは、皆そうだ。ロシアの地に埋もれている。だから私は故郷を出た。マシな暮らしがしたくて”」

 ラストシーンで流れる、少女の日記のモノローグだ。

 何のことはない。
 
 光を求めるロシアの少女の世界を収斂させていく、「イースタン・プロミス」(人身売買契約)という「闇」を出しにしつつも、「全身ハードボイルドもどき」の「スーパーマン性」の値踏みをマキシマムにさせる狙いは、当然の如く、精緻な内面描写を完全にスルーさせる瑕疵が目立たないほど絶大だった。
 
 だから、「人類の希望の未来」の〈生〉に自己投入させていくかのような「聖母マリア」は、「力の論理」と「男の観念」を基本的な情感体系とするフィルムノワールの文脈のうちに、なお自己を縛りつけていく、「全身ハードボイルドもどき」が放つ鮮血の臭気と決して濃密に絡み合うことがないのだ。

 それぞれの人格のうちに象徴される「平和」(「聖母マリア」)と「戦争」(「全身ハードボイルドもどき」)のイメージは、いよいよ両者の隔たりが関数的に広がっていくだろう。

 これが、本作に対する私の基本的把握であり、アカデミー賞(主演男優賞)にノミネートされたヴィゴ・モーテンセンの渾身の表現力に全面依存しただけの、フィルムノワール以上のものでも、恐らく、それ以下の娯楽映画でもなかったということだ。
 
 
 
(人生論的映画評論/イースタン・プロミス('07)  デヴィッド・クローネンバーグ  <「全身ハードボイルドもどき」の男と、「聖母マリア」の距離が関数的に広がっていくだけの物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/06/07.html