深夜の告白('44) ビリー・ワイルダー<「袋小路の閉塞感」の表現力を相対的に削り取ることで希釈化された、ダークサイドの陰鬱感漂う「フィルム・ノワール」>

 1  澱みのないセリフの応酬による饒舌な筆致の瑕疵



 「男を破滅させる女」 ―― このような女を、「ファム・ファタール」と言う。

 ここに、ラストシーン近くに用意された短い会話がある。

 「俺を愛してたのか?」
 「人を愛したことなどないわ」

 これが、ハリウッド史上に「ファム・ファタール」=「悪女」の誕生を告げる有名なシーンだ。

 尋ねたのは、ネフ。

 保険会社の有能な営業マンであったが、女のアンクレットに誘(いざな)われて、まんまと、そのハニ―トラップ(「蜜の罠」)網に搦(から)め捕られたアホな男である。

 そして、この無意味な問いに答えたのが、「ファム・ファタール」である実業家の後妻。

 その名は、フィリス。

 ともあれ、このフィリスと共謀して、保険金目当てで夫を殺害するという、ハリウッドの「フィルム・ノワール」のネガティブなストーリーは、当然の如く、「ヘイズ・コード」(後述)のターゲットにされたとされる曰くつきの作品。

 松葉杖をつきながら、モノクロの闇の画面の中枢に、そこだけスポットが当たるように出現する、いかにもノワールらしい映像の導入である。

 「これは自供のようなものだ。私は君の眼の前で不正を働いていた・・保険金殺人事件をやったのは、この私だ。しかも、金と女の両方も手に入らなかった」

 この言葉は、左肩辺りに銃弾を受け、重傷を負った男が会社の自分のオフィスに戻った直後、徐(おもむ)ろにディクタホン(ボイスレコーダー)を手に持ち、自らが犯して頓挫した事件の全貌を告白する男の切り出しだ。

 これが、冒頭のシークエンス。

 この冒頭のシークエンスので判然とするように、「フィルム・ノワール」の本作は、最初から犯人が登場する倒叙形式(最初に真犯人が出て来て、犯行過程が明かされていく推理小説の一つの形式)の手法によるハンディを、狭隘な映画空間で展開される人間の心の闇に焦点を当てた、相応の「心理サスペンス」という装飾を施している。

 しかし本作は、その後の物語のサスペンスフルな展開に、観る者の好奇の感情を抱かせる映像構成の技巧によって、この導入は相当程度成就しているだろう。

 あとは、物語のサスペンスフルな展開の内実のみということになるが、その肝心なストーリー展開もまた、心憎い程の構築力を見せていくが、それにも拘らず、私が気になったのは、以下の点に尽きる。

 そこだけは特段に拘泥して欲しかった、「フィルム・ノワール」特有のニヒリズム・ペシミズム・シニシズムデカダンス等々の、ダークサイドの陰鬱感漂う空気の澱みや、ドイツ表現主義的な「袋小路の閉塞感」が精緻に表現されていなかったこと。

 これは、私の映像感性から言えば、看過し難い何かであった。

 その理由は簡単である。

 一点目。

 1944年製作という時代状況の制約と、この場面が回想シーンであると把握できていても、ワイルダー流のテンポの速さを抑制し切れなかったのか、不必要なまでの、澱みのないセリフの応酬による饒舌な筆致が気になったのだ。

 要するに、本作もまた、数多のジャンクなるハリウッド映画同様に、精緻を極めた心理描写の決定的欠如が目立つのである。

 それは、この回想シーンで描かれる男女の保険偽装殺人事件のプロセスが、あまりにお座成りで、且つ、粗雑・拙劣であり、それはまるで、突拍子もなく思い付いたように、スーパーの強盗を強行する軽量感に近い何かなのだ。

 以下、稿を変えて言及する。

 
 
(人生論的映画評論/深夜の告白('44) ビリー・ワイルダー<「袋小路の閉塞感」の表現力を相対的に削り取ることで希釈化された、ダークサイドの陰鬱感漂う「フィルム・ノワール」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/10/44.html