春爛漫(その2)

 「春爛漫」という言葉から連想できる心地良い風景イメージが、常に私の中にあり、それが適度な湿気を随伴した柔和な風となって、私の内側を潤してくれる。

 それらの心地良い風景とは、吉野梅郷であり、神代植物公園であり、平林寺であり、多摩森林科学園であり、新宿御苑であり、そして、奥武蔵や秩父の集落である。

 それらは、何もかも、私が最も気に入った「春爛漫」の風景そのものである。

 だからそこに、私は執拗なまでに拘泥して、決して飽きることなく繰り返し足を運び、無駄とも思えるような多くの写真を撮り続けた。

 写真を撮らなくても良かった。

 その心地良い風景の、柔和な風に触れるだけでも良かった。

 そんな至福の思いが、いつも沸々と湧き起こってくるビュースポット。

 心地良い風景が誘(いざな)う得難い浄化効果は、それを求めて止まない者の心に穏やかに沁み込んできて、ほんの少しばかりの安寧を保証し、大袈裟に言えば、自己治癒力を引き出してくれるかのようなのだ。

 でもそれは、パワースポットなどという浮薄な表現に収斂され得ない何かだった。

 ただ、そこにいればいい。

 そこで、存分に春の臭気を嗅ぎ、新緑の鮮やかな色彩に心を預けていく。

 それだけで良かった。

 とりわけ、奥武蔵の寂れた集落の中に我が身を預け入れるとき、その感情は殆ど沸点に達していた。

 目立たないスポットにも、繁殖力が強い西洋タンポポの花が堂々と占有し、黄色い舌状花を咲かせ、其処彼処(そこかしこ)に植えられたウメの木に紅色の彩りが添えられる頃、未だ新緑に届かない季節の先駆けの中で、いよいよ、「休眠打破」を突き抜けて、それを待っていた生命の氾濫の如く、爛漫の春の澎湃(ほうはい)が怒涛のように騒ぐ様子を想起するだけで、もう腹八分の状態になっている。

 まもなくやって来る桜花爛漫の季節に先導されて、「休眠打破」をを抜け切った季節のトップランナーが開いて見せた百花繚乱の風景が、まるで一幅の絵画に収まるような完璧な構図の中で立ち上げられていくのだ。

 奥武蔵の春は、私にとって、それ以外にない浄化装置であり、その立体的な感覚で迫ってくる風景の氾濫は、まさに一期一会の心境の如く感受し、その一瞬の氾濫の風景に存分に酩酊していく。

 この写真ブログには、多摩森林科学園や、神代植物公園吉野梅郷新宿御苑といった、私のお気に入りの画像が相も変わらず収められているが、私の中では、それらの風景美との邂逅の「初頭効果」の心地良き印象が鮮烈に記憶されているから、どうしても、それらのビュースポットを外す訳にはいかなくなっているのである。

 それ以外に、幸手市の権現堂堤の桜並木の写真が収められているが、残念ながら、堤の前の畑に群落する菜の花とのペアの撮影を頓挫したことが悔やまれる。

 朝早く自宅を発ったのに、現地に着いた時間が既に午前9時を過ぎていて、PLフィルターで太陽光線を遮断してもなお、菜の花の黄色が眩し過ぎたため、本来の薄いピンクの桜の色彩表現が不首尾に終わったのである。

 それでも、人っ子一人いない平日の権現堤の風景の素晴らしさは、未だに忘れ得ない鮮烈な記憶となっていて、再訪を期していたが、その思いも断たれた今、せめて心地良き残像のイメージだけを大切にすることにしよう。

 そして、ほぼ毎年2回は通っていた、新宿御苑の春。

 4月中旬に満開になるサトザクラの美しさを目の当たりにすると、この場所がサトザクラの最高のビュースポットであることを確信させてくれるのである。

 素晴らし過ぎるのだ。

 ブルースカイを背景に、サトザクラの白や紅が燃え立つとき、私は首都東京の中枢の一角を占有する、環境省管轄の国民公園であるこのビュースポットの風景美に興奮し、殆ど呑まれそうな気分になる。

 それほど素晴らしいのだ。

 東京へは もう何度も行きましたね
 君の住む 美し都
 東京へは もう何度も行きましたね
 君が咲く 花の都

 これはかつて、マイペースが歌った「東京」というフォークソングの歌詞の一部だが、東京の下町生まれで、下町育ちの私にとって、年輪を経てこの歌を聴くと、妙に感傷的な気分になってしまうのは、風景としての東京の知られざる美しさを視界に収めているからだろう。

 この歌詞は、喧騒の首都に残る人工的だが、しかし、丹念に保存されたビューポイントが存在することを素直に実感させるものになっている。

 東京は美しい。

 とりわけ、桜花爛漫の季節のときの東京は最も美しい。

 多摩森林科学園が東京都に存在する桜保存林であることを、厚顔にも、誇りにしたい思いでいっぱいの今日この頃である。
 
 
[ 思い出の風景 春爛漫(その2) ]より抜粋http://zilgf.blogspot.com/2011/10/blog-post_1955.html