電車の中から見た「物憂げの美人」への関心を契機に、ダンス教室に通う杉山の世俗的な振舞いは、何より彼自身が、中年期のステージにあって、「生き甲斐」探しの旅を必要とするに足る、未知なる「人生の転換点」の迷妄に搦(から)め捕られていて、この迷妄を浄化し、それを上手に乗り越えるための契機を求めていたことの心的現象の顕在化であり、それは「助平心」という情動に隠し込んだ、退屈な日常性から「非日常」へのステップへの入り口に過ぎないと考える方が自然である。
そして、舞という名の「物憂げの美人」もまた、「生き甲斐」探しの旅というカテゴリーに収斂し切れないほどの「危機」にあった。
トラウマと言っていい。
因みに、「物憂げの美人」のトラウマの根源には、ブラックプール(英北西部の海岸保養都市)での頓挫の問題が横臥(おうが)していた。
毎年、初夏に、このブラックプールで開催される世界最高峰の社交ダンス競技会のステージで、他の競技者と接触して転倒するアクシデントに見舞われてから、パートナーに対する信頼感を喪失してしまった舞にとって、何より看過し難かったのは、相手の男性パートナーが自分を守り切ってくれなかったこと。
この由々しき体験が、若い彼女の自我を決定的に傷つけるに至ったことで、そこだけを目指して厳しい「道修行」を繋いできた彼女の繊細な自我から、「最高の夢のステージ」での「最高のパフォーマンス」という、それ以外にない、拠って立つアイデンティティの絶対的基盤を根柢から崩されてしまったのである。
明るい未来に溢れているはずの才能が、彼女の実父から、血を分けた者の大人の配慮もあって、世俗感情丸出しの素人相手の、望みもしないダンス教室の教師を、半強制的に委託させられていた現実の不快感が、彼女の表情から笑みを奪っていた。
これが、「物憂げの美人」の誕生の顛末。
その「物憂げの美人」の、鋭角的に停滞した人生の時間のうちに入り込んで来たのが、本作の主人公の杉山だったという訳だ。
そんな男の邪心に対して、レベルの違う世界に棲んでいると信じる舞の内側で、激しい拒絶反応を抱くのは必至だったと言える。
レベルの違う世界に棲んでいると信じるが故にか、ストレスコーピング(ストレスへの適切な対処法)を確保し得ない苛立ちが、いつまでも、ソフトランディングに向かえない内的時間を延長させているばかりだったのだろう。
充分に膨らみ切ったディストレス状態による拒絶反応が、いつの日か炸裂するのもまた、彼女の感情文脈において回避できなかったに違いない。
ここに、本作の物語の分岐点となった、「物憂げの美人」の辛辣極まる拒絶宣言がある。
その拒絶宣言の哀れなる対象人格は、締まりなき野放図とは無縁に、常に理性的に振舞う、堅物の真面目人間の杉山であったのは言うまでもない。
以下、「物憂げさ」故に、より累加されていった、美人教師の危うげな魅力に惹かれる一方の堅物の真面目人間が、遂に意を決して、直截にデートを誘った不相応な行為に対する、「物憂げの美人」による単刀直入な拒絶宣言。
「こんな言い方失礼かも知れませんが、もし私のことが目的で、この教室にいらしているんでしたら、ちょっと困るんですけど・・・私は真剣にダンスを踊っています。教室はダンスホールじゃありません。不純な気持ちでダンスを踊って欲しくないんです」
粘り込んで待ち伏せし、食事を誘った杉山への物言いは、殆ど袈裟斬りの切れ味を見せていた。
ところが、この袈裟斬りの切れ味を受けた男が、この一件を契機にして能動的に変容していくのである。
そして、舞という名の「物憂げの美人」もまた、「生き甲斐」探しの旅というカテゴリーに収斂し切れないほどの「危機」にあった。
トラウマと言っていい。
因みに、「物憂げの美人」のトラウマの根源には、ブラックプール(英北西部の海岸保養都市)での頓挫の問題が横臥(おうが)していた。
毎年、初夏に、このブラックプールで開催される世界最高峰の社交ダンス競技会のステージで、他の競技者と接触して転倒するアクシデントに見舞われてから、パートナーに対する信頼感を喪失してしまった舞にとって、何より看過し難かったのは、相手の男性パートナーが自分を守り切ってくれなかったこと。
この由々しき体験が、若い彼女の自我を決定的に傷つけるに至ったことで、そこだけを目指して厳しい「道修行」を繋いできた彼女の繊細な自我から、「最高の夢のステージ」での「最高のパフォーマンス」という、それ以外にない、拠って立つアイデンティティの絶対的基盤を根柢から崩されてしまったのである。
明るい未来に溢れているはずの才能が、彼女の実父から、血を分けた者の大人の配慮もあって、世俗感情丸出しの素人相手の、望みもしないダンス教室の教師を、半強制的に委託させられていた現実の不快感が、彼女の表情から笑みを奪っていた。
これが、「物憂げの美人」の誕生の顛末。
その「物憂げの美人」の、鋭角的に停滞した人生の時間のうちに入り込んで来たのが、本作の主人公の杉山だったという訳だ。
そんな男の邪心に対して、レベルの違う世界に棲んでいると信じる舞の内側で、激しい拒絶反応を抱くのは必至だったと言える。
レベルの違う世界に棲んでいると信じるが故にか、ストレスコーピング(ストレスへの適切な対処法)を確保し得ない苛立ちが、いつまでも、ソフトランディングに向かえない内的時間を延長させているばかりだったのだろう。
充分に膨らみ切ったディストレス状態による拒絶反応が、いつの日か炸裂するのもまた、彼女の感情文脈において回避できなかったに違いない。
ここに、本作の物語の分岐点となった、「物憂げの美人」の辛辣極まる拒絶宣言がある。
その拒絶宣言の哀れなる対象人格は、締まりなき野放図とは無縁に、常に理性的に振舞う、堅物の真面目人間の杉山であったのは言うまでもない。
以下、「物憂げさ」故に、より累加されていった、美人教師の危うげな魅力に惹かれる一方の堅物の真面目人間が、遂に意を決して、直截にデートを誘った不相応な行為に対する、「物憂げの美人」による単刀直入な拒絶宣言。
「こんな言い方失礼かも知れませんが、もし私のことが目的で、この教室にいらしているんでしたら、ちょっと困るんですけど・・・私は真剣にダンスを踊っています。教室はダンスホールじゃありません。不純な気持ちでダンスを踊って欲しくないんです」
粘り込んで待ち伏せし、食事を誘った杉山への物言いは、殆ど袈裟斬りの切れ味を見せていた。
ところが、この袈裟斬りの切れ味を受けた男が、この一件を契機にして能動的に変容していくのである。
(人生論的映画評論/Shall we ダンス?('96) 周防正行 <「喪失したアイデンティティの奪回」=「アイデンティティの再構築」についての物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/12/shall-we-96.html