わが心のボルチモア(‘90) バリー・レヴィンソン <「映画の嘘」の飯事遊戯を拒絶した構築的映像の、息を呑む素晴らしさ>

イメージ 11  ノスタルジー映画の欺瞞性を超える一級の名画



「古き良き時代のアメリカ」を描いただけの、フラットなノスタルジー映画に終わっていないところに、この映画の素晴らしさがある。

 嘘臭い感動譚と予定調和の定番的な括りによって、鑑賞後の心地良さを存分に保証してしまう、数多のハリウッドムービーに集約される、「面白ければ何でもいい」という世界と、この映画は明瞭に切れている。

 だから、あまり観られることのない作品だが、私としては、そのような作品をこそ好むので、邦題名が見事に嵌った本作が、一級の名画であるという評価には全く揺るぎがない。

過剰な感傷と馬鹿げたストーリー展開と、大袈裟な演出。

これが完璧に捨てられていた。

そこが最高にいい。
 
 
2  「映画の嘘」の飯事遊戯を拒絶した構築的映像の息を呑む素晴らしさ
 
 

本作の主人公であるサム・クリチンスキーが、東欧系移民として、アメリカの土地を踏んだのは独立記念日だった。

1914年の7月4日のことである。

独立記念日の祝祭に湧く盛大なパレードやイベントが開催され、その蠱惑的(こわくてき)な風景の中枢のスポットに魅入られた男が胸躍らせるオープニングシーンは、「アメリカン・ドリーム」を求めて、この「移民の国」に身を預ける者たちの心象風景を、眩いばかりに煌(きらび)やかで、フォトジェニック映像美のうちに特化され、切り取られていた。

まさに、そこに「アメリカ」がある限り、皆、「アメリカ」になりたいのだ。

近代文明の底力に吸収されていくサム・クリチンスキーが、そこにいた。

ボルチモアアバロン通りで、既に働いていたゲイブリエルら4人の兄弟と共に、壁紙職人としての一歩を踏み出したサムは、週末は音楽とダンスを愉悦する日々の中で、生涯の伴侶となるエヴァと結婚する。

クリチンスキーという名の血縁系の集団は、まもなく「家族会」を結成し、皆で拠金し合って、兄弟たちの父親を筆頭に、欧州の身内を呼び寄せるまでに肥大していく。

サムとエヴァは、息子ジュールスを儲け、成長したジュールスも妻アンとの間に、孫のマイケルを儲けるに至り、嫁姑との関係の中で感情の亀裂を生むが、特段に尖り切ったものではなく、全てが順調にいっていたように見える。
 
そんな渦中で、テレビの時代の到来を読んだジュールスは、従兄弟と共に、電化製品のディスカウントストアを立ち上げて成功する。

一貫して淡々と進む物語は、後半に入って、風景の劇的な変容を見せる展開との対比の効果を鮮明にしつつ、伏線的な連関性を映像提示していく。


以下、風景の劇的な変容を見せるシーン。

それは唐突に起こった。


既に、その年の「会長」を決めねばならない程に肥大した「家族会」が、これまでと同じような風景を繋いでいたにも拘らず、突然、東欧移民の第一世代の間でトラブルが惹起する。

感謝祭で集う「家族会」の面々が、いつものように遅れて来た、サムのゲイブリエルの不興を買ったのだ。
 
「食べているのか?私を待たずに、七面鳥を切って。帰ろう。我々を待たずに食べている」

遅れて来たゲイブリエルの第一声である。

 「遅れるからだよ。子供たちは腹をすかせている」

サムの反応であるが、兄のように特段感情を荒げていない。

 「自分の兄弟を待てないのか!感謝祭には二度と来ないぞ!」

帰っていく兄のゲイブリエルと、不貞腐れる兄を街路まで追うサム。


 「どうかしているわ」とエヴァ
「毎年遅刻だ。彼が来るのを待って、七面鳥を切る」

 家に残っている者の率直な反応である。

「遠方からわざわざ来たんだぞ。私を待てないなら、近所に住む親戚を作れ!金ができると、人間はそうなるのさ。息子が金を作ったので、身内を待たずに七面鳥を切る!」
 
追って来るサムを待つかのように、相変わらず怒鳴り散らすゲイブリエル。

 「息子の成功と、七面鳥は何の関係もない!」とサム。
 「アバロンにいた頃は、七面鳥を切り、食事を始めた」
 「子供は腹をすかせるとぐずる。仕方ないだろう」
 「いつだって、子供は腹をすかせてぐずるものさ!だが、七面鳥を切るのは、皆が揃ってからだ!もう来ないぞ!」


こんな確執があってもなお、辛うじて「家族会」は存続するが、しかしそれは、世代を超えた「共同幻想」によって延長されていた、「大家族」の崩壊の決定的契機のシグナルだった。


まもなく、家族会の議長となっているサムが、収容所(恐らく、ナチス強制収容所)から生還した、エヴァの弟シムカの家族の面倒を看るに至り、一家を「家族会」に参加させようとする問題で、再び、兄のゲイブリエルと対立した事態を招来することで、家族会の基盤が決定的に崩され、自壊する。
 
それは、世代を超えた「共同幻想」によって延長されていた、「大家族」という名の一大「コミュニティ」が終焉した瞬間だった。

「平等な貧しさ」が「不平等な豊かさ」の発現によって、約束されたかのような内部矛盾を生み、「コミュニティ」のバランスを壊し、それが血縁系の集団であればこそ、そこに嫉妬感情がべったり絡みつくことで、自壊するときも呆気ない程の貧弱な風景を晒す、極めて人間学的な様態を露わにするである

豊かさは共同体を破壊するのだ。


その後、従兄弟と共に立ち上げたジュールスの新たな百貨店は、4Fを出火原とするトラッキング現象(漏電火災)によって全焼し、ジュールスらの「アメリカン・ドリーム」は、束の間、道半ばで頓挫するが、打たれ強い移民者のDNAを継いだ彼らのメンタリティが簡単に折れないイメージをも、「アメリカ」という「快楽装置」が放つ底力を隠し込むショットのうちに、この秀逸な映像は提示していく。

 
 
(人生論的映画評論・続/わが心のボルチモア(‘90) バリー・レヴィンソン  <「映画の嘘」の飯事遊戯を拒絶した構築的映像の、息を呑む素晴らしさ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/08/90_30.html