ミリオンダラー・ベイビー('04)  クリント・イーストウッド  <孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画>

 1  「想像力の戦争」を巡る知的過程を開く映像



 様々な想像力を駆り立てる映画である。

 説明的な映像になっていないからだ。

 遠慮げなナレーションの挿入も、映像の均衡性を壊していない。

 観る者に、本作の余情を決定付けた、ラストナレーションに違和感なく誘導し得る重要な伏線となっている、件のナレーションの抑制的価値が担保されていたからであろう。

 そこがいい。

 イーストウッド監督の、「チェンジリング」(2008年製作)までの作品群の殆どを観てきているが、恐らく、本作がイーストウッド監督の最高到達点か、或いは、それに近い評価を与えるに相応しい極め付けの映像ではないか、と私は個人的に考えている。

 確かに、本作においても、多くのイーストウッド作品に特有な「善悪二元論」的な描写(後述)を内包させていたが、そこもまたイーストウッド監督らしく、いつものように抑制的な技巧を存分に発揮し、映像総体を過剰な情感で流すことはしなかった。

 本作に限っては、その抑制的な技巧が相当程度奏功していたと思われる。

 思うに、想像力を駆り立てる映画とは、既にそれだけで、作り手は、読解を求めて思考遊泳する観る者の視座とイコール・フィッティング(対等な競争条件)の関係に立っていると言えるだろう。

 なぜなら、観る者は作り手の意図と、作り手によって創造され、そこから相対的な自在性を確保して表現する、本作の登場人物の内面世界の微妙な振幅の双方を想像しなければならないからだ。

 その時点でもう、作り手と観る者は、「想像力の戦争」を巡る知的過程を開いている。

 そこがいい。
 
 そのような映画が、最も秀逸な表現作品であるに違いない。

 では、本作をどう把握すべきなのか。

 一体、この映画は何を主題にしたものなのか。

 以下の稿で、それを勘考してみたい。
 
 
(人生論的映画評論/ミリオンダラー・ベイビー('04)  クリント・イーストウッド  <孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/05/04.html