キューポラのある街('62) 浦山桐郎 <「風景の映画」としての「青春前向き映画」>

 1  「平等の貧困」が崩れていく時代の揺籃期の中で



 均しく貧しい時代を保証していた「平等の貧困」が、いつしか崩れていった。

 高度成長以降、この国は大きく変わってしまった。

 固形石鹸で髪を洗っていた時代は、永遠に戻らない。

 あの頃、私たちは、近隣から洩れ聞こえてくるピアノの音色に何の反応も示さなかった。

 それは、一切の空気を変える嵐のような尖った時代の到来だった。

 波動する日常が目眩(めくるめ)く快楽にすっかり呑みこまれ、彩り鮮やかにしていくばかりだった。

 人々はいつしか、隣から洩れ聞こえるエレクトーンの音色や、その子弟の勉強風景や、ガレージに納まる新車の眩しさを無視できなくなってきた。

 高度経済成長による豊かさの獲得は、自分だけが豊かでなくなることへの新しい不安の様態を、人々の内側に過剰なまでに張り付けていったのである。

 「絶対的な貧しさ」が崩れることで、共同体の秩序が波動したのだ。 

 「頑張ること」のメンタリティから、「急げ」、「速く」という「駆け足の美学」が生まれた。

 それを可能にしたのは、「頑張って、急げば何とかなる」という時代の気分であった。

 この時代の気分の根柢には、この国の人々に根強い公平観念や平等主義がある。

 「横一線の原理」の中で仕立てられた、これらのイデオロギーは、殆ど人々の精神性の襞(ひだ)に深々と張り付いていたのだった。

 さて、本作のこと。

 本作は、均しく貧しい時代を保証していた「平等の貧困」が、いつしか崩れていく時代の揺籃期にあって、未だ共同体の扶助精神という幻想が、人々の推進力になっていた下町を舞台に、「労働」、「扶助」、「連帯」という概念が包括する価値を特定的に切り取って、それらが支配する風景のうちに呼吸を繋ぐ思春期を、明朗に、且つ、前向きに描き切った映画である。

 従って本作は、良かれ悪しかれ、幾つかの概念で説明できる映画である、と私は考えている。

 それらは、既に挙げたような概念を含み、更に包括的に羅列すると、「貧乏」、「労働」、「努力」、「向上心」、「自立」、「扶助」、「純粋」、「連帯」、「戦後教育」、「幻想」等々である。

 そして、それらの概念を象徴する生活臭溢れるエピソードがあり、そのエピソードが生み出した言葉がある。

 以下、生活臭溢れるエピソードが生み出した言葉を拾っていくことで、本作の本質に迫りたい。
 
 
(人生論的映画評論/キューポラのある街('62) 浦山桐郎 <「風景の映画」としての「青春前向き映画」> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/62.html