カンバセーション 盗聴('73)  フランシス・フォード・コッポラ<孤独感と妄想観念の相乗作用によって集約された人格イメージの内に>

 1  一貫して漂うブルーな風景 ―― その映像構築力



 この映画を観て、そこで描かれた世界に類似する二本の映像がある。

 一本は、40年も前に観た、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」(1966年製作)で、もう一本は、近年観た、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル 監督の「善き人のためのソナタ」(2006年製作)。

 前者は、一貫して「愛の不毛」を中枢的なモチーフとして気だるいような作品を発表してきたアントニオーニ監督が、ここでも件のモチーフとの関わりを捨てることなく、「現実と虚構のボーダーの曖昧さ」を描くことで、現代社会の虚構性を抉るテーマ性を包含させていたのに対して、後者は一党独裁下の閉鎖的状況下で、その体制の維持に生きる男の「孤独と救い」を描いていた。

 極めて前衛的で形而上学的な色彩が強い前者の映像的構築力は抜きん出ていたが、好みの問題から言えば、この作品に限って言えば、その不条理性の濃度の深さに対して、私の映像感性とどうしても折り合いがつかなかった。

 後者は、心地良き音楽を聞いただけで、堅固な自我が溶けていく映像展開の、その心理描写の甘さに対して多いに不満だけが残された一作だった。

 両作共に、当該社会の有りようを批判する観点を多分に含みながらも、前者は、「現実と虚構のボーダーの曖昧さ」、後者は、「自分のプライバシーを決して開かない孤独性」というテーマ集約によって説明できるだろう。

 そして、本作の「カンバセーション 盗聴」というテーマを突き詰めていくと、前2作のテーマ性を併せ持ちながらも、高度に発達した現代社会へのダイレクトな批判は抑えられているような印象を受ける。
 
 ゴッドファーザー」(1972年製作)、「地獄も黙示録」(1979年製作)のような大作に比べれば、コッポラ作品の中では極めて地味であり、且つ、そのテーマも底が抜けるほどに暗鬱で、映像が放つサスペンスフルな緊迫感とは裏腹に、そこに一貫して漂うブルーな風景の印象は、厳しく破滅的な作品を好む私の映像感性に共振するものがあった。(画像はフランシス・フォード・コッポラ監督)

 一貫して漂うブルーな風景の印象を作り出したのは、孤独な主人公の視線によって映像が構築されていたからである。
 
 
 
(人生論的映画評論/カンバセーション 盗聴('73)  フランシス・フォード・コッポラ<孤独感と妄想観念の相乗作用によって集約された人格イメージの内に> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/12/73.html