彼女が消えた浜辺('09) アスガー・ファルハディ <「イラン映画」という狭隘な枠組みを突き抜けて、「非日常」の突発的な〈状況〉を支配し切れない、人間の脆弱性に関わる普遍的な問題提示>

 1  極めて普遍的な人間の問題のうちに収斂される映像



 いずれの国も抱える国民国家の、歴史形成的な政治・文化風土の問題に関わる提示が、そこで特化されて提示された、極めて普遍的な人間の問題のうちに収斂される映像として、本作を把握すること ―― この基本的理解が私の中にある。

 そこで特化されて提示された、極めて普遍的な人間の問題とは何か。

 それは、しごく普通の感覚で、日常性の稜線をほんの少し伸ばして、手に入れた「非日常」への「ガス抜き」の時間のうちに自己投入していった果てに、予想だにしない「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉の只中で、そこに関わる者たちの自我を翻弄し、食(は)んでいく。

 そこに、計画性の破綻が媒介する人為的瑕疵が含まれていたことを思えば、これは、ある一定の確率で惹起する極めて普遍的な現象であったと言えるだろう。

 相応に武装化された個々の自我が、その武装性を剝落させていく内的行程の中で、本来の裸形の人格像が露わにされてしまうからである。

 露わにされた人格像が、予想だにしない「非日常」の突発的な破壊力が作り出した〈状況〉によって、自己防衛的行動に走ってしまう心理的文脈は、幾多の心理学実験でも検証されている事実である。

 人間はこういうとき、かなりの確率で理性的行動を選択し得ず、〈状況〉が作り出した不安と恐怖に関わる感情傾向を、より鋭角的に身体化させていくのは殆ど不可避であると言っていい。
 
 
(人生論的映画評論・続/彼女が消えた浜辺('09) アスガー・ファルハディ <「イラン映画」という狭隘な枠組みを突き抜けて、「非日常」の突発的な〈状況〉を支配し切れない、人間の脆弱性に関わる普遍的な問題提示>)より抜粋http://zilgz.blogspot.com/2012/03/09.html