乱れ雲('67)   成瀬巳喜男 <禁断の愛の畔にて>

 1  絶対拒絶と無限に続く債務感
 
 
 
 一人の女が幸福の絶頂の中で、その持ち前の美貌に磨きをかけるような微笑の日々に包まれていた。

 彼女の名は由美子。

 新妻である由美子の夫は、通産省輸出促進課に勤務するエリート官僚。その出世も際立っていて、米国派遣の辞令を受け、近く渡米することになっていた。既に夫の子を身篭っている妻の日々は、渡米の準備に明け暮れる闊達(かったつ)さの中で、至福の表情を映像に存分なほど映し出していた。

 しかし、その眩し過ぎる新妻の至福に充ちた微笑が、突然、暴力的に奪われることになった。夫の江田が交通事故によって、一瞬にして、その尊い生命を喪う羽目になってしまったのである。

 例によって、成瀬は人の死を描かない。

 夫の遺体が安置されている閉ざされた空間で、「あなた・・・」と嗚咽を刻む妻の表情を短く映し出して、その後の描写は、既に葬儀の場面にシフトしていた。その中枢に、幸福の絶頂から転落した新妻と義父母が肩を落として座っている。

 そこに一人の男が、場違いな空気の中に入り込んで来た。

 男の名は三島。商社マンである。

 そして何よりも、由美子の夫を車で轢いた張本人なのだ。男は自らを名乗り、遺族の前で深々と頭を下げた。

 そんな男に、義父の罵声が飛んだ。
 
 「あんたが家の息子を殺したんやな!何しに来たんや!あんた、家の息子殺しとって、ここへ何しに来はったんや!」
 
 義父の隣に小さく座る未亡人の表情も、憎悪の感情をストレートに炙り出していた。深々と頭を下げた後、男は立ち去ろうとした。

 「あんた!」

 再びそう叫んで、男に向かっていこうとした義父は、傍らの義母に止められて、男はそのまま静かに玄関に進んでいく。

 そのときだった。

 今度は未亡人となった由美子が、男に向かって、凄い形相で追い駆けていく。

 それに気づいた男は振り向いて、頭を下げるのみ。

 そこに置き去りにされた女は、全身を貫流する憎悪感を、理知的な音声に結べない辛さの内に重々しく刻んだ。それが全ての始まりだった。

 最愛の夫を交通事故で喪った被害者の新妻、由美子と、その夫を自らの過ちで事故死させた加害者の若き商社マン、三島。

 裁判で無罪になったとは言え、彼は由美子への贖罪を果たすために、何とか彼女に接近しようとするが、傷心の女は加害者の顔など見たくもない。言わずもがなのことだ。

 「お金なんか要りません。返せるものなら、主人を返して下さい」

 これが、女の心の全てだった。

 結局、由美子の姉が、三島との間に契約書を交わして、彼女の元に男から送金されることになったのである。

 由美子は三島の存在すら認めようとしない。だから、彼の金を受け取ることを最後まで拒むのだ。義父母との関係を既に絶って、亡夫との間に孕んだ我が子を中絶した病院に、青森転勤を伝える当の三島が訪ねて来た。男は示談契約書を届けに来たのである。

 「帰ってもらって!もう来ないように言って!」

 病床で嗚咽する絶対拒絶のメッセージを聞き取った男は、もうそれ以上近づけなかった。男はまもなく、青森行きの列車に飛び乗ったのである。

 男を許さぬ女の気持ちは、一貫して変わらない。それでも青森から、金を送り続ける加害者。女はその金を仕方なく受け取って、生活資金の足しにした。     

 「嫌だわ。人に頼って生きていくなんて・・・」
 
 実姉に漏らした女のこの言葉は、自分が置かれた立場の無念さを象徴するものだった。

 それでも男には、自分が為すべき行動は限定されている。ひたすら、被害者の妻に送金することのみ。彼にできることはそれだけなのだ。そんな自分に歯痒い思いがする。三島は次第に心の重荷に耐えられず、無限に続くような債務感にしばしば押し潰されそうになる。せめて由美子から、免罪に近い反応を引き出したかったのである。この心理が、三島をして由美子にアプローチさせていく背景としてあった。
 
 
(人生論的映画評論/乱れ雲('67)   成瀬巳喜男  <禁断の愛の畔にて>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/63_20.htm