歌行燈('43)  成瀬巳喜男   <木洩れ陽の中の表現宇宙>

 1  プライドラインの確信的撃破 ―― その罪と罰

 

 少し長いが、「虚栄の心理学」という拙稿から引用する。

 「(虚栄心とは)自らの何かあるスキルの向上によって生まれた優越感情を、他者に壊されないギリギリのラインまで張り出していく感情であるとも言える。スキルの開拓は、自我の内側に今まで把握されることもなかった序列の感覚を意識させることにもなる。この主観的な序列の感覚が、内側に優劣感情を紡ぎ出すのである。

 自分より高いレベルにあると勝手に認知された者への劣等意識が、自分より低いレベルにあると勝手に認知された者への優越感情をほどほどに中和し、自分なりに相対化している限りでは、その平穏なるラインを喰い千切って、空気を破壊するような虚栄心の暴走は見られない。

 ところが、スキルの意志的向上は、大抵、そのプロセスで『道』の序列者たちと観念的に出会ってしまうから、自らの序列性を測ることで、自己を基準にした他者の優劣度が観念的に把握されざるを得なくなってくる。この主観的把握がスキルの前線で他者とクロスするとき、他者の多様性に即して虚栄心が様々に反応するのは、それが見透かされることへの恐怖感情を本質とするからだ。

 その些か繊細で、特有の心象を括っていくと、虚栄心には、二つの文脈が包含されていることが分る。

 その一つは、『私にはこれだけのことができるんだ』という自己顕示的な文脈。もう一つは、『私はそれほど甘くないぞ』という自己防衛的な文脈。虚栄心とは、この二つのメッセージが、このような特有な表出を必要とせざるを得ない自我のうちに、べったりと張りついた意識の内実なのである。

 虚栄心は、相手が必要以上に踏み込んでくると察知したら、プライドラインを戦略的に後退させ、水際での懸命の防衛に全力を傾注する。いずれも、見透かされないための自我防衛のテクニックであると言っていい」

 本作が「虚栄心」をテーマにした映画でないことは重々承知しているが、この厄介な心理の膨張と、その破綻についての描写が私の興味を引いたので、そのテーマを特定的に切り取って書いてみる。

 自らが構築した等身大の「虚栄の砦」に篭っていれば別に問題が生じなかったにも関わらず、「謡(うたい)の名手」であることを自他共に認め、それを無限大に拡大していった挙句、一人の按摩はとうとう本物のプロとクロスしてしまって、そのプロの確信的攻撃性によって撃破されてしまった。

 「相手が必要以上に踏み込んでくると察知したら、プライドラインを戦略的に後退させ、水際での懸命の防衛に全力を傾注する」余裕すらなく、素人でしかない「謡の名手」の高慢な態度をへし折る目的で、本物のプロが相手の拡大された「虚栄の砦」を粉砕するために土足で侵入し、完膚なきまでに破壊し去ってしまったのである。

 因みにプライドラインとは、「ここだけは守りたい虚栄的自我の絶対防衛ライン」のことで、筆者の造語。本物のプロが土足で侵入し、完膚なきまでに破壊し去った「虚栄の砦」こそ、プライドラインという名の「絶対防衛ライン」であった。

 その結果、相手の拡大された「虚栄の砦」を破壊した男が、破壊された男と同様に高慢な若造だったが故に、その破壊の結果が悲惨な運命を必然化してしまったのである。

 若造の名は、恩地喜多八(きだはち)。

 能のシテ方観世流宗家(能の主人公を演じる観世流儀の当主)、源三郎の養子であり、将来が嘱望されている謡い(能の声楽部分)のホープだった。この一行が伊勢に向かう車中で、宗山(そうざん)という「謡の名人」の噂を聞いて、喜多八は「鬼退治」に向かったのだ。
 場所は伊勢古市。(画像は、伊勢古市の麻吉旅館)

 そこに盲目の「謡の名人」が妾をはべらして、贅沢三昧の生活をしていた。そんな凡俗の徒の「虚栄の砦」に強引に闖入(ちんにゅう)し、その倨傲(きょごう)な態度をへし折ってしまったのだ。

 哀れなる者、汝の名は宗山なり。

 そこだけは死守したいはずのプライドラインを砕かれて、宗山は「道」の序列の最上位に近い辺りに位置する者と遭遇して慄(おのの)き、怯(ひる)み、最後には跪(ひざまず)いて、教えを乞う醜態を晒すばかりだった。ところが、「鬼退治」の快感に酩酊する若造の態度は、跪く男の倨傲さよりも始末に悪かった。

 「そんなに聴きたいのか、俺の声が?じゃあ、こうしな。若布(わかめ)の附焼でも土産に東海道を這い上り、恩地の台所の板の間に、恐れながらと手を付きな。そうしたら、親父に内緒で俺がこの『浦船』でも教えてやろう。分ったか!宗山」

 そんな毒気含みの啖呵を捨て台詞にし、縋り付く宗山の手を振り切って、喜多八は勝ち誇った者のように立ち去って行ったのだ。

 宗山の指示によって、彼の娘のお袖が、喜多八を雪の中に追って行った。

 「可愛いな。死んでも人の玩具(おもちゃ)になるな」

 それが、お袖を宗山の娘であるという事実を知らない喜多八の置き土産となった。更に残酷極まる置き土産が、お袖を待っていた。プライドラインを撃破された宗山が、その日のうちに縊死したのである。

 その後、嫌われ者の宗山の死を喜ぶ記者たちの前で、得意げにそのときの状況を話す喜多八がそこにいた。

 鼓師である辺見は感嘆するが、高慢な喜多八の態度に「芸で生きる者」の人格的欠如を感じた父は、息子を勘当するに至ったのだ。

 「謡を口にすることはあいならん。恩地喜多八は流儀の外道でござる。只今を限り恩地家を勘当いたす。世間一通り分るようにお書き下さい」

 父は記者の前で、そう吐き捨てて、一切の弁明を認めなかったのである。

 それが、素人名人のプライドラインを確信的に撃破した驕慢な若造に対する、厳粛なる養父のペナルティだった。以降、謡を口にすることを禁じられた有能な芸能者の、殆ど予定不調和的な人生が開かれるが、次章で言及していく。
 
 
(人生論的映画評論/歌行燈('43)  成瀬巳喜男   <木洩れ陽の中の表現宇宙>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/10/43.html