鶴八鶴次郎('38)  成瀬巳喜男   <「自己基準」に崩された愛、砕かれた芸道への夢>

 1  覚悟を括った女の決定力



 「ねえ、お豊ちゃん、あんた本当に帝劇に出るつもり?」
 「ええ出ます。あたしはもう一度高座へ出て、昔の人気を取り戻してみたくなったの」
 「それは願ったり叶ったりだけれど、ご主人が何て言うかな」
 「大丈夫。許してくれるに決まってます。もしもいけないようなら、いっそ離縁を取って、独りになります。…あたしはこの生きがいのある芸の仕事に、もう一度惚れ込んだのよ」

 この極めつけのような会話の決定力。

 女のこの表現が、本作を根柢から支えていると言っていい。

 ここで、「お豊ちゃん」と呼びかけた男が鶴次郎で、その「お豊ちゃん」が鶴八。

 共に新内語りの名コンビだが、この会話の状況の背景は、芸と愛情の縺(もつ)れによって仲違いをして、2年間に及ぶ関係の断絶の挙句、一方は芸の道から離れた金満家の妻となり、他方は身を持ち崩してどさ回りの芸人となっていたが、周旋屋の佐平らの尽力で、再び名人会の高座に出演し、それが大成功を収めた興奮覚めやらぬ楽屋での一齣(ひとこま)である。
 

 その状況に至るまでのプロットを、簡単に説明しておこう。


 江戸時代に「座敷浄瑠璃」として発展した「新内語り」の文化の伝統を守る、一組の男と女がいた。鶴八鶴次郎である。

 鶴八は先代の一人娘で、鶴次郎は先代の直弟子。浄瑠璃を語る太夫の鶴次郎と、三味線弾きの鶴八の若いコンビの人気は、大衆の娯楽が限定的であった時代下の文化を賑わすほどの持て囃(はや)され方だったと言えるだろう。

 若くして「名人会」の高座に出演する二人だったが、お互いに男女の感情を意識しながらも、芸に対する深い思いの故に、それぞれの芸に対する把握の内実が微妙な差異を見せていて、事あるごとに衝突してしまうのである。

 具体的には、先代の教えを忠実に守り、それを表現していくことに自分の芸の意味を見つける鶴次郎と、母である先代のコピーをすることに、少なからず拒絶反応を示す傾向を持つ鶴八との対立の構図と言っていい。

 しかも厄介なことに、芸術観の相違による二人の衝突の内に、相互に思いを寄せる男女の感情が深々と絡んできてしまうから、この関係修復の行程の軟着点の困難さが、時として、決定的な事態を招来してしまうのだ。

 二人の芸を後援する贔屓(ひいき)筋の松崎の存在が、それでなくとも意地っ張りな二人の関係に常に一定の緊張感を運んできて、少なくとも、鶴次郎の主観的立場から見ると、鶴八に横恋慕しているようにしか見えない、パトロンとしての男が放つ「御為ごかしの親切」は、二人の関係にとって障壁以外の何ものでもなかった。

 三角関係の様相が尖って顕在化するように見えたとき、男の悋気(りんき)が不必要なまでに暴れてしまったのである。これが、本作の起承転結の「起」の要諦である。

 そんな二人の関係の緊張が、佐平らの尽力で柔和な軟着点に達するまでが、物語の「承」の部分である。温泉宿で遂に愛を確認し合った二人は、帰京後、独立の気概を持って自らの寄席を作ろうとして奔走する。
 まさに順風満帆の日々が続いたのも束の間、贔屓筋の松崎の資金援助の事実を知った鶴次郎が、抑え切れない怒りを鶴八に爆発させることで、巷間、話題になった二人の新婚もどきの関係は呆気なく壊れてしまうのである。

 鶴八と別れた鶴次郎が、どさ回りの芸人に身を持ち崩して、宿賃も払えないで堕ちていく生活風景を描き出すのが、本作の「転」に相当する部分である。

 物語の中で、観る者の感情を最も揺さぶって止まない盛り上がりを見せる「転」の部分が、悲哀を極める男の内面世界の澱みをネガティブに写し撮る描写であるところは、如何にも成瀬らしいが、この描写が映像の表現的な価値をしっかり支えていたからこそ、作品に豊饒な膨らみを保証したと言えるだろう。

 とりわけ、些か出来過ぎの感があったが、自分の名前が書かれたポスターが土地の子供に破かれた挙句、紙で作った船に化け、川に流されていくところを悲痛な眼で眺める男の描写は秀逸であった。

 その後、泥酔した男が別れた女との、一時(いっとき)の幸福なる時間の日々を回想するシーンは、その直後にシフトする物語のラインの骨格を成していて、既に戦前において自分の表現世界を構築した映像作家の真髄を見る思いがする。

 そして、物語の「結」の部分に映像が流れていくが、ここには、冒頭に言及した鶴八と鶴次郎の会話によって象徴される、本篇の本質に関わる描写が待機する。

 繰り返すが、周旋屋の佐平らの尽力によって、再び名人会の場に戻って来た二人は、2年間のブランクを感じさせない巧みな芸によって大喝采を浴び、あわよくば、帝劇への出演のチャンスを掴みかける状況を作り出したのである。その好機を目の当たりにして、芸一筋に生きんと欲する鶴八の強い意志を伝える会話が、冒頭の会話である。

 ところが、夫と別れる覚悟をも括った鶴八の態度を見て、どさ回りですっかり疲弊した鶴次郎が困惑し、愛する女のためにひと芝居を打つのである。男が女の芸の拙劣さを厳しく批判する芝居によって、例によって、二人の関係は修復の余地がない状態を出来させてしまうのだ。

 一時(いっとき)の人気に終始する危うさを持つ芸人稼業の虚しさを、嫌というほど味わった男から見れば、本来の女の幸福が金満家の妻の生活にこそ存すると考えたのは、寧ろ、自然の成り行きであったとも言えるだろう。

 この決定的な場面において、男の配慮が「自己犠牲的な精神」を発揮したかのような描写によって説明された後の物語展開は、自分が打った芝居の事実を周旋屋に告白し、彼と共に場末の飲み屋での苦い酒盛りのうちに映像が閉じていくのである。

 そこには、いつものようにハッピーエンドで映像を括ることを嫌う、成瀬の表現世界の真骨頂が窺えた。

 
 
(人生論的映画評論/鶴八鶴次郎('38)  成瀬巳喜男   <「自己基準」に崩された愛、砕かれた芸道への夢>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/01/38.html