定着への揺らぎと憧憬―「寅さん」とは何だったのか

 (1)体の芯が温まるような暖かさ―― 男の純愛道


 一切の近代的利器とは情感的に切れる生き方を徹底させ、渡し舟に乗り、月夜の晩に故郷を懐かしむリリシズムが全篇に漂う中、その男は純愛を貫くのである。

 人々は映像の嘘と知りつつも、この架空のヒーローに深々と思いを込めていき、気がついたら、自分たちがせっせと愉しむ下半身の風俗のタブーを、映像の主人公と、それを演じる俳優の双方に貼り付けてしまっていた。過剰な時代を拙速に駆け抜けようとする私たちの身勝手さが、物語をより過剰にしてしまったのかも知れない。

 「反近代」の庶民の旗手としての記号に生きたその男は、「光の近代」の心地良いイメージとどこかで切り離されたような、言わば、りんどうの花が遠慮げに季節を告げるローカルな世界を彷徨するが、まさに、その「光の近代」との摩擦を擦り抜けるスキルを併せ持っていた。

 男は近代の匂いを情感的に好まないが、その近代とは決して対決しないのだ。一人の女(「夕焼け小焼け」の太地喜和子)を苦しめる悪徳業者との対決を回避したその男には、未知なる他者に対する自分の本来の職掌が、癒しのパートナー以外でないことをとうに認知しているのである。

 男の旅は、この国の古き良き伝統に回帰することで自らを癒し、自分より弱き立場にあると信じる女性たちの、その負性なる環境の重しを、彼なりの固有の、過剰なまでに親切なパフォーマンスによって、ほんの少し削ってあげることにある。

 だが、男は引き受けない。引き受けられないのである。

 男の異性愛が、常に純愛より奥に進めないのは、男の役割が、旅先に出会った悩める女性の傷を、一時(いっとき)手当てすることにしかないからである。傷心の女性の内側を癒して、体の芯を暖めてあげる。そこに、男の真骨頂があるのだ。

 
(心の風景   定着への揺らぎと憧憬―「寅さん」とは何だったのか)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2008/12/blog-post.html(7月5日よりアドレスが変わりました)