コルチャック先生('90) アンジェイ・ワイダ <せめてもの安らかな死――人間の尊厳の究極的な到達点を求めて>

 序  人間の尊厳を失わずに生きることの意味



 この映画は、死が日常化しているような苛酷な状況下で、人間の尊厳を失わずに生きることの意味を鮮烈に問いかけた一篇である。

 それは最も大切なものを守るために、その大切なものを失ってまで守られることを拒んだ男の記録でもあった。それは男が拓いた人生の必然的帰結であって、そこに選択の余地すらない事柄であった。なぜなら、彼が最も失いたくないものは、彼が心から最も愛するものであり、その愛するものの尊厳を保障し、守っていくことこそ、彼の最後の人生の生き甲斐であったからである。

 それ故に男は、自らの命を日々に削っていくような、その信じ難き、ある種の狂気にも似た振舞いの一切を、「使命感」という心地良き言葉で語ることを決してしなかった。人は彼を「聖人」と呼び、「殉教者]と崇める向きもあるが、そのような形容を男は最も嫌っていたのである。

 好きだから守ろうとする。守ろうとするものの尊厳を守ることこそ、人間の尊厳を失わずに生きられた最大の理由だった。
 
 既に有名人であった彼が、やがて打ち切られるであろうラジオ放送の中で、自ら吐露している。

 「世のため、人のため、身を捧げるというのは嘘です。ある者はカードを、ある者は女をある者は競馬を好む。私は子供が好きです。これは献身とは違う。子供のためにではなく、自分のためなのです。自分に必要だからです。自己犠牲の言明を信じてはいけない。それは虚偽であり、人を欺くものです」

 これが、「コルチャック先生」という凄惨なる映画の、その冒頭のシーンに於ける極めて印象的な言葉である。


(人生論的映画評論/コルチャック先生('90) アンジェイ・ワイダ <せめてもの安らかな死――人間の尊厳の究極的な到達点を求めて> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/12/90.html