1 「日常性のサイクル」の恒常的な安定の維持の困難さ
刺激情報をもたらす外気との出し入れが少なく、それなりに「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」では、そこで呼吸を繋ぐ人々の多くは、「日常性のサイクル」を形成しているだろう。
因みに、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。
従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。
「日常性」のこの傾向によって、そこには一定のサイクルが生まれる。
この「日常性のサイクル」は、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つというのが、私の仮説。
しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。
「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。
「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。
その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。
2 収拾付かない状況を露わにする鈴木家の「日常性のサイクル」
さて、本作のこと。
本作では、必ずしも、この「日常性のサイクル」が十全の機能を果たしていない家庭が中心的に描かれているが、その家庭の欠損性に乗じるかのように、そこに侵入してきた「非日常の毒素」によって、件の家庭の欠損性がじわじわと侵蝕されていくことで、それでなくとも風通しの悪さの故に劣化した、ミニマムな「自己解決能力」すらも失いつつあるプロセスを、「ブラックユーモア」を内包したコメディタッチで淡々と描き切った一篇 ―― それが「松ヶ根乱射事件」だった。
拠って立つ自我の安寧の基盤が相応に担保されているからこそ、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の変わりにくさが、「バブル失墜」とは無縁な継続力を保証してしまったのだが、そのことは、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性を示すものである。
「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性のうちに依拠していた地域コミュニティの復元力は、刺激情報をもたらす外気との出し入れが少なかった分だけ脆弱になり、「非日常の毒素」への免疫耐性を恒常化してしまっているだろう。
白銀の世界に横たわる赤いドレスの女の死体(?)に、ランドセルを背負った児童が、その女の胸や下半身を触るという、映像冒頭の反徳的なまでに過剰なシーンに端を発した「轢き逃げ事件」が、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」に馴致した人々の日常性に、加速的に波紋を広げていく。
刺激情報をもたらす外気との出し入れが少なく、それなりに「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」では、そこで呼吸を繋ぐ人々の多くは、「日常性のサイクル」を形成しているだろう。
因みに、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。
従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。
「日常性」のこの傾向によって、そこには一定のサイクルが生まれる。
この「日常性のサイクル」は、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つというのが、私の仮説。
しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。
「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。
「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。
その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。
2 収拾付かない状況を露わにする鈴木家の「日常性のサイクル」
さて、本作のこと。
本作では、必ずしも、この「日常性のサイクル」が十全の機能を果たしていない家庭が中心的に描かれているが、その家庭の欠損性に乗じるかのように、そこに侵入してきた「非日常の毒素」によって、件の家庭の欠損性がじわじわと侵蝕されていくことで、それでなくとも風通しの悪さの故に劣化した、ミニマムな「自己解決能力」すらも失いつつあるプロセスを、「ブラックユーモア」を内包したコメディタッチで淡々と描き切った一篇 ―― それが「松ヶ根乱射事件」だった。
拠って立つ自我の安寧の基盤が相応に担保されているからこそ、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の変わりにくさが、「バブル失墜」とは無縁な継続力を保証してしまったのだが、そのことは、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性を示すものである。
「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性のうちに依拠していた地域コミュニティの復元力は、刺激情報をもたらす外気との出し入れが少なかった分だけ脆弱になり、「非日常の毒素」への免疫耐性を恒常化してしまっているだろう。
白銀の世界に横たわる赤いドレスの女の死体(?)に、ランドセルを背負った児童が、その女の胸や下半身を触るという、映像冒頭の反徳的なまでに過剰なシーンに端を発した「轢き逃げ事件」が、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」に馴致した人々の日常性に、加速的に波紋を広げていく。
(人生論的映画評論/松ヶ根乱射事件('06) 山下敦弘 <「アンチ・ハリウッド」の気概すら感じさせる、切れ味鋭い映像の「自己完結点」>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/07/06.html