幸福の選択に博打はいらない  文学的な、あまりにも文学的な

 
 一度手に入れた価値より劣るものに下降する感覚の、その心地悪さを必要以上に学習してしまうと、人は上昇のみを目指すゲームを簡単に捨てられなくなる。

 このゲームは強迫的になり、エンドレスにもなるのである。

 自己完結感が簡単に手に入り難くなるのだ。

 「これでゲームオーバーだ」という認知が、次第に鈍ってくるのである。

 捨てられず、後退できず、終えられないゲームに突き動かされて、落ち着きのない人々は愉楽を上手に消費できず、愉楽の隙間から別のアイテムに誘(いざな)われて、過剰なショッピングを重ねていく。

 今、自分が手にしているもの以上の価値ある何かが、どこかにある。

 それを手に入れなければ済まない生理が、そこにある。

 バスを降ろされたくない不安の澱みが、単にそれを埋めるためだけの補填に走るのだ。

 快楽は常に、より高いレベルの快楽によって相対化されるから、どうしてもこのゲームはエンドレスになり、欲望のチェーン化は自我を却ってストレスフルにしてしまう。

 未踏の、豊饒な満足感に充ちた快楽との出会いは、それを知らなかったら、それなりに相対的安定の秩序を保持したであろう日常性に、不必要な裂け目を作るばかりか、それがまるで、魅力の乏しいフラットな時間に過ぎないことを、わざわざ自我に認知させ、自らの手で日常性を食い千切っていく秩序破壊の律動は、しばしば激甚であり、革命的ですらあるだろう。

 そのアプローチの様態は様々だが、普通の人間ならその対象への一縷(いちる)の警戒感を捨てることなく近づいて、その甘い蜜の香りがやがて脳の快楽中枢を不断に刺激してしまえば、もうその対象を擯斥(ひんせき)することが困難になるはずだ。

 そして人は、その対象との絶対的距離をどこかで巧みに無化してしまうだろう。距離を無化させた駆動力 ―― それを私は「快楽の落差」と呼んでいる。

 自分が今まで味わったことのない種類の快楽と出会ってしまったとき、人はもうメロメロになっている。
 
(心の風景  /幸福の選択に博打はいらない  文学的な、あまりにも文学的な )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_01.html(7月5日よりアドレスが変わりました)