禁断の愛の破壊力  文学的な、あまりにも文学的な

 禁断の愛は、堅く封印された扉を抉(こ)じ開ける愛である。


 その扉を抉じ開けるに足る剛腕を必須とする愛、それが禁断の愛である。

 そして、その扉を抉じ開けた剛碗さが継続力を持ったとき、その愛は固有なる形をそこに残して自己完結する。

 果たしてそこに侵入する魂に、その愛を自己完結するだけのエネルギーを持ち得るか。

 扉を抉じ開ける剛腕さと、その愛を継続させる腕力は別個の何かである。

 一回的な剛腕さが継続力を持つには、その時間を保証するに足る極めて難度な能力を必要とするだろう。

 果たして、人はそれを持ち得るか。

 時間を継続させるエネルギーが充分に用意されても、それを上手に駆動させるには、腕力や体力のみならず、そこに、それらの魂にとって殆ど未知なる膨大な精神力というものが求められるのだ。

 禁断の愛の大胆な飛翔の継続は、それほど困難な何かなのだと思う。

 果たして、誰がそれを持ち得るか。

 禁断の愛の継続は、単に、その継続を妨害しようとする者たちとの果敢な闘争の持続力を意味しない。

 寧ろ、それを妨害しようとする力が大きく作用するほど、そこに防御しようとする者のエネルギーの再生産が可能となるだろう。

 禁断の愛は、それを妨害する様々な因子が絡みつくほど、却って、その愛の継続力を保障する方向に向かっていくのである。

 多くの場合、禁断の愛の破綻は内側から惹起され、肥大していく。

 それは防御するエネルギーの枯渇によってではなく、それを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって起こると言っていい。

 それほどまでに危険な愛を、なぜ人は目指すのか。

 それを手に入れようと、なぜ人は時には命を賭けるのか。

 それが禁断なる愛であるからだ。

 禁断なる愛は魔性の愛なのである。
 
 
(心の風景  /禁断の愛の破壊力  文学的な、あまりにも文学的な )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_19.html(7月5日よりアドレスが変わりました)