苦悩することの可能なくしては、享楽することの可能は不可能である  文学的な、あまりにも文学的な

 「苦悩を癒す方途は無意識を意識の衝撃にまでもたらすことであり、決して無意識の裡に沈潜させることではなくして、意識にまで自らを昂揚し、而もよりいっそう苦悩することである。(略)苦悩の悪は、より大なる苦悩によって、より高次の苦悩によって癒える」


 これは、若き日に、私に決定的な影響を与えた、スペインを代表する哲学者・ミゲル・デ・ウナムーノの「生の悲劇的感情」(1941年版の「理想主義者の悲劇」進藤遠訳から)の中の言葉。

 「苦悩することの可能なくしては、享楽することの可能は不可能である」とも書いてあったこの哲学書に、23歳の青臭い私が、どれほど励まされたか、殆ど言葉に表せないほどだった。

 この世に、「この本によって救われた」と言う人がいるが、大袈裟に言えば、私の場合も、それに当て嵌まっていた。

 凄い表現だった。

 雷に打たれたようなインパクトを受け、およそ経験したことがないような名状し難い精神状態に陥った日々を、今更のように想起するが、そこに懐かしさの感情は全くない。

 心が苦しかった思いしかないのだ。

 苦しくて、苦しくて、なお苦しい日々が恒久に続くだろう、〈生〉を引き摺って生きていく、己が恐怖との厄介な共有が許容された思いだったのだ。

 「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって」
 
 これは、奇しくも23歳で逝った北條民雄の名作、「いのちの初夜」の中のラストで、主人公の尾田(北條民雄)に放った佐柄木の言葉。

 「癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください」

 佐柄木は、そこまで言い切ったのだ。

 癩者に成りきらない限り、癩者が、その死に至るまで食(は)まれ続けるだろう、無間地獄への負のスパイラルを断ち切ることができないと言うのだ。

 「死ぬまでつきまとって来る」苦悩を、己が脆弱なる自我に引き受けて、引き受け切って、なお引き受け切って、息絶えろ。 

 「より高次の苦悩によって癒える」まで、苦悩の奥深い闇を突き抜けていけ。

 「意識にまで自らを昂揚し、而もよりいっそう苦悩」の奥深い闇の彷徨から、見え透いた方便を使い捨てて、安直に逃げるなかれ。

 そう言っているのだ。
 
 
(心の風景  /苦悩することの可能なくしては、享楽することの可能は不可能である  文学的な、あまりにも文学的な )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_3686.html(7月5日よりアドレスが変わりました)