戦場にかける橋('57) デヴィッド・リーン <予測困難な事態に囲繞される人間社会の現実の怖さ>

 1  本作への様々な対峙のスタンス



まず、書いておきたいのは、この映画を批評する際に、史実との乖離とか、日本軍の「武士道精神」を体現したとされる斉藤大佐の描き方や、「人間らしく生きることが一番簡単なのだ」という信条を持って、収容所を脱走するアメリカの将校(階級詐称していて、実は二等水兵)の描き方の甘さとか、或いは彼らの描き方が、本作で「騎士道精神」を体現したとされる英軍将校との比較において不公平などという狭隘な見方は、初めから捨てた方がいいということだ。

史実との乖離については、特段に文句をつけるような事柄ではないだろう。

と言うのは、ラストでの橋梁爆破のシークエンスの導入によって、初めから史実に則った映画ではないことが明瞭であるからだ。

あくまでも本作は、デヴィッド・リーン監督が、この作品以降、その映像表現の中枢の主題に関与するようになった文脈、即ち、歴史的時代状況の大きな流れの中に呼吸を繋ぐ者たちの、それぞれの人生の振れ方を描き切った一篇であると見るべきだからである。

勿論、多くの鑑賞者が褒め称(そや)すような「反戦映画」のカテゴリーのうちに、本作を包含するのは一向に構わないが、私は必ずしもそのようなカテゴリー分けに与しない。

本作には、様々な対峙のスタンスがあっていいのである。

以下、私の対峙のスタンスについて簡潔に言及したい。



 2  「利敵行為」よりもプライオリティが高い「奴隷に身を落とさない」生き方
 
 
 
拠って立つ価値観や置かれた立場が異なり、科学技術の習熟度や、それについての把握が異なる「異文化」の中枢に、「クワイ河マーチ」のメロディに乗って軽やかに行進しながら、自分の意志とは無縁に放り込まれた英軍将校とその一隊が、人生に対する基本的価値観や置かれた立場の相違によって、相互理解困難な葛藤や対立の中で、そこだけはほぼ万国共通の「男の美徳」、即ち、「信念を変えない意志の強靭さ」や「類希な勇敢さ」を身体表現することで、葛藤や対立の原因子の表層を除去し、「英雄の立ち上げ」を可能にした。

この「英雄の立ち上げ」の推進力によって、課題の解決困難な「大事業」を、科学技術の習熟度の粋を駆使して遂に成し遂げ、そこに「立ち上げられた英雄」は、「英雄の完成」の域にまで上り詰めていった。 (画像は、舞台となったクウェー川鉄橋)

しかし、「英雄の完成」は、歴史的時代状況の流れとの間に微妙な落差を生み出していく。

それは既に、「英雄の立ち上げ」以降の、「英雄」の「信念」の中に包含されていたものである。

従って、「大事業」の遂行によって成った「英雄の完成」は、同時に、微妙な落差を生み出していた歴史的時代状況の流れの中で、「英雄の崩壊」を必然化させていたと言っていい。

これは、デヴィッド・リーン監督が5年後に発表する、「アラビアのロレンス」という稀有な大作と殆ど同じ物語構造であると考えられる。

即ち、本作で「信念を変えない意志強靭さ」や「類希な勇敢さ」を身体表現した英軍将校であるニコルスン大佐は、「アラビアのロレンス」とほぼ同様の人生の振れ方を示したと見ていいだろう。
ニコルスン大佐(画像)は、「アラビアのロレンス」だったのだ。
 
 
(人生論的映画評論/戦場にかける橋('57) デヴィッド・リーン <予測困難な事態に囲繞される人間社会の現実の怖さ>  )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/12/57.html