ノスタルジア('83) アンドレイ・タルコフスキー<「現実と過去の、形而下・形而上的世界の融合」、「異質なるものの人格像、世界観の融合」のイメージの内に>

1  「ロウソク渡りの儀式」という戦略



故国ロシアに戻れば奴隷になる覚悟で帰国した果てに自殺した悲劇の音楽家、サスノフスキーの足跡を追う、詩人アンドレイ・ゴルチャコフのイタリアでの旅が終焉しつつあったとき、女性通訳のエウジェニアを伴って、彼女が「絵のような教会」と呼ぶ信仰スポットの「出産の聖母」を見るために、トスカーナ地方にやって来た。

教会自体に何の関心も持たないゴルチャコフと、エウジェニアの微妙な確執が冒頭から映し出された。

「あなたには理解できない。なぜ教会に入らないの?」

この問いに答えないゴルチャコフは、「何を読んでる?」と相手に尋ね、女は「アルセーニー・タルコフコフスキーの詩」と答える。

「ロシア語?」とゴルチャコフ。
「いいえ、翻訳。名訳よ」とエウジェニア。
「捨てるんだ」
「なぜ?」
「詩は翻訳ではない。芸術は全てだ・・・お互いに理解不能だな」
「どうすれば、分り合える?」
「境界を失くすことだ」

こんな「理解不能」の二人の違いが、より明瞭になるのは、この村で「変人」呼ばわりされる男との出会いを通してだった。

男の名は、ドメニコ。

彼は「人類救済」のために、家族を7年間も自宅に閉じ込めていた曰くつきの人物。

ゴルチャコフはドメニコに異常な関心を示し、早速、彼に会いに行き、彼の浮世離れした言葉を聞くに至る。

「一滴プラス一滴は二滴ではなく、大きな一滴になる」

このドメニコの言葉は、ドメニコ自身と、彼が自分の「人類救済の儀式」を依頼するロシア人ゴルチャコフの人格が統合されたイメージの中で語られている。

ドメニコは、明らかにゴルチャコフの分身なのだ。

「大きな目的を持つべきだ。エゴイストだった。家族だけを救おうと・・・皆を救わないと。世界を・・・」
これが、7年間も自宅に家族を閉じ込めていた男が、ゴルチャコフに語った言葉。

「どうやって?」

そう尋ねるゴルチャコフに答えたのは、「ロウソクに火をつけたまま、聖カテリーナのヴィニョーニ温泉宿の傍の水を渡る」ことだった。

そして映像が映し出したのは、7年後、公的権力によって家族が解放されたとき、ドメニコが幼い我が子に、「パパ、これが世界の終わり?」と言われたシーン。

少年の視界に映った世界は、豊かな森の中をハイウェイが走る、素晴らしい色彩を持つ現代社会そのものの姿だった。

以上のドメニコの、「変人」的振舞いのエピソードを見る限り、そんな男に魅かれるゴルチャコフと、件の男を「変人」呼ばわりするエウジェニアの確執の心的風景は明瞭である。

ドメニコの分身と化したゴルチャコフと女性通訳の確執は、イメージの世界で生きる男と、現世の生身の世界で生きる女との違いであり、女にとって、文明社会を否定するドメニコに同化しつつあるロシアの著名な作家のイメージは、「偽善者」でしかなかったのだ。

その「偽善者」は、女に殴打され、鼻血を流して、床に零れ落ちた鮮血の赤を処理するのみ。
ゴルチャコフに生身の「性」を求めて退けられたエウジェニアが、ゴルチャコフの元から去って、映像後半で、ドメニコの演説を伝えることで再会した際、事業家と思える男と結婚した経緯が挿入されていたが、それこそ彼女の、「ごく普通の世俗性」を検証する生き方だったことが判然とする。

そして、女に殴打された男の「観念的人生」の選択肢は限定的であった。

異国の地での、彼の心象世界が捕捉し得る対象人格は、ドメニコのみとなっていく。

今や、ドメニコの分身と化したゴルチャコフには、「ロウソク渡りの儀式」のような戦略に身を預ける非合理の世界への自己投入しか残されていないのだ。

まさに彼の自我は、異郷の地で、深刻なアイデンティティの危機に直面しているのである。
 
 
(人生論的映画評論/ノスタルジア('83) アンドレイ・タルコフスキー<「現実と過去の、形而下・形而上的世界の融合」、「異質なるものの人格像、世界観の融合」のイメージの内に> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/02/83.html