映画史に残したい「名画」あれこれ 序文

 1  突沸した「前線」に「決め台詞」を吐かせるファンタジームービーの愚昧さ



 常々思うのだが、国内外問わず、なぜ、この程度の作品が様々な映画賞の栄誉に浴するレベルの評価を受けるのか、理解に苦しむことがあまりに多い現状に言葉を失う程だ。(画像は、「ワン・フルムーン」の舞台になったウェールズの牧歌的な風景)。

 評価の根拠が想像できるだけに却って心地悪いのだ。

 情感系映画の全盛時代にも、そろそろ幕が下りて来つつあるようにも見えるが、それでも引きも切らず、過剰な情緒の、怒涛の如き進撃に需要の飽和点が見えにくいばかりである。

 何より、奇麗事で塗りたくられた作品には反吐が出るほどだ。

 この類の作品に存分の思い入れをしている映画ファンには申し訳ないが、例えば、「雨あがる」(1999年製作)という「名画」(画像)。

 「現代に失われつつある“優しさ”を見事に表現した、心が晴れ晴れとする温かい感動作」」(ビデオジャケット解説より)という看過し難い物言いには、またしても、「やれやれ」という気分にさせられる。

 本作の主人公である「心優しき浪人」が、偶然、侍同士の果たし合いに遭遇して、自己投入していくシーンがあった。

 そんな突沸(とっぷつ)した状況に、件の「心優しき浪人」は、本作の基幹メッセージを支えると思われる「決め台詞」を吐くのだ。

 「刀は人を斬るものではない。バカな自分を、いや、自分のバカな心を斬り捨てるために使うものです」

こんな気障(きざ)で、喰えない「決め台詞」を、何と、「前線」での戦闘中の渦中に投げ入れたのである。

 「これだけ立派な腕を持ちながら、花を咲かせることができない、何という妙な巡り合わせでしょう。でも私、このままでようございます。人を押しのけず、人の席を奪わず、機会さえあれば、貧しいけれど真実な方たちに喜びや望みをお与えなさる。このままのあなたも立派ですもの」

 これは、「心優しき浪人」の妻による、ラストシーンでの「決め台詞」。

 何という厭味で、傲慢な物言いなのだろう。

 「貧しいけれど真実な方たち」とは、一体何なのか。

 「貧者」=「弱者」=「真実な者」という、「スーパーマン」映画の類型的なカテゴリーに収斂されていく何かであることは間違いない。

 「お与えなさる」とは、一体何なのか。

 それもまた、「貧者」=「救済されるべき弱者」という、「スーパーマン」映画に収斂されていく、定番的な文脈以外ではないのである。

 要するに、本作は、「貧者」の「救済」を趣味にする、「スーパーマン夫婦」の存在価値が、周囲の「貧しいけれど真実な方たち」の存在によってのみ検証される、一篇のファンタジームービーなのだ。


(心の風景 /映画史に残したい「名画」あれこれ 序文 )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2011/06/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)