偏見という病理

 偏見とは、過剰なる価値付与である。

 一切の事象に境界を設け、そこに価値付与して生きるしか術がないのが、人間の性(さが)である。その人間が境界の内側に価値を与えることは、境界の外側に同質の価値を残さないためである。通常、この境界の内外の価値は深刻な対立を生まないが、内側の価値が肥大していくと、外側の価値との共存を困難にさせるのだ。これが偏見である。

 偏見とは、境界外の価値との共存の均衡を破ることであり、境界外に不必要なまでの敵の存在を仮構することである。あらゆる現象存在が仮想敵になってしまうので、偏見のイデオロギー基盤を揶揄すればば、一種のアナキズムであると言えるかも知れない。

 偏見居士は、自分以外の価値を外側の世界に決して同定しないのだ。偏見は過剰なる価値付与であると同時に、過剰なる価値剥奪でもある。

 偏見によって仮構された敵を甚振(いたぶ)ることは、偏見居士のその過剰な展開の副産物などではなく、寧ろ、そこにこそ彼らの主要な狙いがある。敵を甚振ることの快楽を手に入れて、彼らもまた「負の自己完結」の際限のない行程に踏み込んでいく。この行程の中で、彼らは偏見を自己増殖し、無秩序の闇を広げていくのだ。

 黒人を平気で吊るし(ストレンジ・フルーツ・注1/写真は「ストレンジ・フルーツ」についてのビリー・ホリディ自伝)、ユダヤ人の財産を平気で奪い(水晶の夜・注2)、そして朝鮮人を平気で撲殺し(大震災)、今またフリーメーソン(注3)攻撃を止めない人々は、権力機関とは無縁な一般大衆(一部知識人)であったこと、それらが全て、法治国家の内部で遂行されたことを冷厳に受け止める必要がある。

 過剰を抑制する自我が機能不全を常態化するとき、そこにはもう、偏見の土壌が成っている。自我の成熟度こそ、偏見を測る指針となる。偏見の濃度は自由の濃度でもある。真に自由なる者は、偏見からも自由である。

 身体化されるほどに尖った偏見は、あらゆる点で、自我の病理であるという他はないであろう。


(注1)アメリカ南部の黒人差別が露骨だった時代、朝になると、昨晩殺された黒人の死体が木に吊るされていて、その姿がまるで、「ストレンジ・フルーツ(奇妙な果実)」に見えるという実話で、ビリー・ホリディの歌で有名。

(注2)1938年11月9日から10日にかけて、ナチスのSA(突撃隊)がユダヤ人の商店などを襲って、放火した事件で、多くのユダヤ人が虐殺されたと言われる。「水晶の夜」とは、事件の中で、破砕した窓ガラスに照らされた月夜の光が、水晶のような輝きを見せていたことに由来する。

(注3)その起源は不分明だが、18世紀のイギリスで形成されたという説が有力の「秘密結社」だが、その内実は個人参加の友愛団体と言えるもの。アメリカに多く、その支部は「ロッジ」と言って、世界中に存在する。アメリカの初代大統領である、ジョージ・ワシントンも会員だったと言われる。
 
 
(「心の風景/偏見という病理 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_3071.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)