虚栄の心理学

 虚栄心とは、常に自己を等身大以上のものに見せようという感情ではない。自己を等身大以上のものに見せようとするほどに、自己の内側を他者に見透かされることを恐れる感情である。虚栄心とは、見透かされることへの恐れの感情なのである。

 同時にそれは、自らの何かあるスキルの向上によって生まれた優越感情を、他者に壊されないギリギリのラインまで張り出していく感情であるとも言える。スキルの開拓は、自我の内側に今まで把握されることもなかった序列の感覚を意識させることにもなる。この主観的な序列の感覚が、内側に優劣感情を紡ぎ出すのである。

 自分より高いレベルにあると勝手に認知された者への劣等意識が、自分より低いレベルにあると勝手に認知された者への優越感情をほどほどに中和し、自分なりに相対化している限りでは、その平穏なるラインを喰い千切って、空気を破壊するような虚栄心の暴走は見られない。

 ところが、スキルの意志的向上は、大抵、そのプロセスで「道」の序列者たちと観念的に出会ってしまうから、自らの序列性を測ることで、自己を基準にした他者の優劣度が観念的に把握されざるを得なくなってくる。この主観的把握がスキルの前線で他者とクロスするとき、他者の多様性に即して虚栄心が様々に反応するのは、それが見透かされることへの恐怖感情を本質とするからだ。

 その些か繊細で、特有の心象を括っていくと、虚栄心には、二つの文脈が包含されていることが分る。

 その一つは、「私にはこれだけのことができるんだ」という自己顕示的な文脈。もう一つは、「私はそれほど甘くないぞ」という自己防衛的な文脈。虚栄心とは、この二つのメッセージが、このような特有な表出を必要とせざるを得ない自我のうちに、べったりと張りついた意識の内実なのである。

 虚栄心は、相手が必要以上に踏み込んでくると察知したら、プライドラインを戦略的に後退させ、水際での懸命の防衛に全力を傾注する。いずれも、見透かされないための自我防衛のテクニックであると言っていい。

 そしてこれこそが、日本人が勝気の国民性であると言われる心理的風景の一つである。虚栄心は、勝気な心理傾向を支える一つの重要な柱なのである。

 バレンタインチョコ(写真)を多くもらったことを、他人に言わずにいられない人の心の奥には、自己像に対する他者からの、「認知志向のずれ」(イメージの誤差)を恐れる感情が、存分にプールされているだろう。

 一々、人に言わなくても、「あいつはモテるから、もらって当然」という空気に囲繞(いにょう)されていれば、殊更、自慢居士になる必要がない。

 件(くだん)の者を厭味(いやみ)な自慢居士に駆り立てるものは、一体何か。

 それは、彼が固執するある種の優越感情(この場合は、「自分はこんなにモテるんだ」という感情)の根拠となる対象(モテるという事実)に対して、彼の周囲の者、とりわけ、彼が意識する特定他者やその周辺者が、その事実を充分に認知していないのではないかという不安が潜在するからである。同時に、「バレンタインチョコをもらえない男」と見られる不安に、彼が耐えられないからである。本当は自分がモテない男であるという隠された自己像を見透かされたくないという心理が、その奥に伏在しているのだ。男の虚栄心の一つの表れ方が、ここにあると言っていい。

 そんな虚栄心の振れ方を証明するようなエピソードが、「葉隠」(注1)の中にある。

 自分が用足しに行っている隙に、殺人事件が発生した。戻って来て、凄惨な現場に立ち会ったその武士は、自分がその状況から抜け出した、腑抜(ふぬ)けのような武士に見られることへの恐怖感から、自分とは利害関係のないその当事者を斬殺したのである。実に、後味の悪い話だった。

 当時、武士のアイデンティティが虚構の観念のうちにしかなく、この幻想を守るために、人を殺すことまで強迫されていた、厄介な負のシステムがそこにある。そしてこの負のシステムに、農業生産のシビアな現場からすっかり無縁となった武士の虚栄心が繋がれて、ある種、滑稽なまでに暴走していくことの怖さを、この話はリアルに留めているのであると言えようか。

 武士が武士であるためには、武士であることの記号を、単に自らに冠することではとうてい済まないのである。髷(まげ)や刀が単なる記号以上の何かであることを検証する時間、即ち、「非常時」という時間が、全ての御家人藩士の存在価値を規定している。

 彼らは、一生に一度あるかないかの「非常時」での身の処し方に、一切を乗せていく。実際には殆ど機能しなかった、「武士道」という厄介な重石が、やり直しが効かない彼らの表現の正邪を両断しにかかるから、一片の躊躇(ちゅうちょ)・逡巡・辟易(へきえき)もそこに許されないのだ。見透かされてしまった武士は、それで未来が閉ざされてしまうのである。

 上意討ちに頓挫した男の悲劇を描いた、藤沢周平の「玄鳥」(文春文庫・注2)という名篇は、「非常時」での対応の難しさを教えてくる。「非常時」では、「完璧なる仕事の達成」という以外の解答がないからだ。
 
 まさに、虚栄心の本質が恐怖感情にあることを、これらの事例は教えてくれるのである。

 殆ど虚栄心だけの武士道は、武士階級の崩壊によって呆気なく自壊したと思いきや、その粗悪なエキスだけが近代に流れ込んでいった。

 面子と年功序列制(日本海兵学校の卒業席次である「ハンモックナンバー」が、軍の指導的地位を決めた)によって近代戦を闘って、この国の軍隊をリードした高官たちのアナクロニズムの中に。


(注1)佐賀藩鍋島藩)の山本常朝の口述を、田代陣基(つらもと)が記録したもので、18世紀初頭に成立。「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節は、あまりに有名である。「鍋島論語」とか、「葉隠聞書」とも呼ばれていたが、明治時代に新渡戸稲造(農学者)が、アメリカで出版した「武士道」(1900年)が我が国に逆輸入され、当時の近代日本の精神主義の形成に影響を与えた。1938年には、矢内原忠雄(経済学者)訳の「武士道」が、岩波文庫として刊行された。

(注2)玄鳥とはツバメのこと。「無外流の剣士として高名だった亡父から秘伝を受けついだ路は、上意討ちに失敗して周囲から「役立たず」と嘲笑され、左遷された曾根兵六にその秘伝を教えようとする。武家の娘の淡い恋心をかえらぬ燕に託して描いた」(紀伊国屋書店BookWebより)傑作短編。
 
 
(「心の風景/虚栄の心理学 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_7242.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)