失敗のリピーター

 心理学者、岸田秀(写真)の言葉に、「失敗は失敗のもと」という卓見がある。

 とても説得力のある言葉である。

 失敗をするには失敗をするだけの理由があり、それをきちんと分析し、反省し、学習しなければ、かなりの確率で人は同じことを繰り返してしまうということである。

 甘い蜜を求めて出費した大金が戻って来ない苦い体験に懲りずに、熱(ほとぼ)りが冷めたら再び同じことを繰り返す厄介な人が、私たちの周囲にいないだろうか。

 損をすることが分っていても無益な投資を止められない、所謂、「コンコルド効果」という心理現象が、何某かの心理的背景を持って、ある種の人々に内在するようだ。かの人たちは何かに憑かれたような心理状況下で、悪しきリピーターになっていくのか。

 また常に同型のタイプの異性を好きになるから、殆ど類似した失恋のパターンをなぞるのは、何も、「フーテンの寅さん」ばかりではあるまい。恋愛の世界におけるこれらのリピーターたちは、精神分析的に、「本当は失敗を求めていたんだ」とこじつけることもできなくもないが、些か無理があるだろう。彼らにしたって成就を願って出費し、恋の炎を必死に燃やしたはずである。

 しかし頓挫した。

 恐らくそこには、深い心理学的背景が見え隠れするだろうが、彼らにはそれが見えないのだ。見えないから、彼らの反省は通り一遍のものに終始し、自己の本質に迫れず、やがて時の流れが痛みを中和して、又候(またぞろ)、蜜の香りに誘(いざな)われていくという負の人生循環に嵌るのである。

 対象が惹きつける快楽が、頓挫による反省的学習を常に少しずつ、しかし確実に上回るから、彼らは「失敗のリピーター」であることを止めないのである。

 更にそこに、「失敗だったが、無駄ではなかったんだ」という、過去を擁護して止まないお馴染みの思考が少なからず媒介するだろう。

 小さな失敗なら歯牙にかけないものが、重大な失敗になると、それを全否定することによって失うものがあまりに大きすぎる場合、人は失敗をストレートに認知することをしばしば逡巡する。そこに、いかに無駄な時間が費消されたかということに眼を瞑り、「失敗の過去にも学ぶべき点が多かった」などという認知的不協和の心理学に流れ込んで、失敗の本質に肉薄する一切の合理的文脈を、丸ごとオブラートに包み込んでしまうのだ。 

 これは一種の、自我防衛のテクニックである。

 己の重大な挫折の経験を、その重大さと深刻さにおいて自我に記憶させたくないのである。自らの無能と救い難さを、ストレートに認めたくないのだ。だからそれをオブラートで被せて、姑息な相対化を図るのである。

 更に始末に悪いのは、「自己奉仕的バイアス」という心理学の概念で知られているように、自らの失敗を外的条件(第三者の悪意による介在等の、外部状況因子)とか、運の悪さなどのせいにすることで、それらがなければ本当は成功していたに違いないという狂信がかった感情を抑え切れず、あろうことか、この思いを客観的に立証するために類似の行動を再び開いてしまうことである。

 こうして、ある種の人々は繰り返し同じ轍を踏み、まるで、時計の振り子を戻したかのような同類の失敗の、信じ難きリピーターになっていく。当の本人だけが、それに対して自覚的になれないのだ。

 長い間、オプチミスティックに固まった自己像と親しんできている本人の自我の視界だけが、その復元を保障できないまでにすっかり曇ってしまっていて、際立って不合理な、自らの振舞いを検証する手立ても全く打てないばかりか、既に化石となった記憶に澱む、なお自らを心地良く展開させていくための過剰なる快楽装置を、常に眼の届く位置に張り巡らせてしまっているのである。

 恐らく、過去の記憶に張りついた余分な何かが、視床下部(注1)と繋がっているA―10神経から放出されたドーパミン(注2)が惹起した、えも言われぬ快感の刺激的な情報として、扁桃体(注3)の細胞にたっぷりと記憶され、この一種、蠱惑(こわく)的な装置が、自我と目される前頭前野(注4)の本来的な機能を劣化させてしまうのだろう。

 それらの情報が自我機能と往還するときには、既に蠱惑的な衣装を身にまとっていて、その解放の出口を求めて止まない情動系の氾濫を抑制できないのである。その氾濫が不断に外部世界に向かって身体化し、過剰なる展開を押し出していくのであろう。本人だけが、そのけばけばしいまでの幻想の宴に、いつまでも酔っている。この心地良き酔いだけでも、失いたくないと言わんばかりに。

 失敗のリピーターの心理を説明するのに、「ハウリング現象」という概念を用いる向きもある。

 ハウリング(Howling)(注5)とは、「吠える」とか「途方もない」というような意味を持つ形容詞であるが、ハウリング・ワイルドネス(野獣が吠える荒野)、ハウリング・エラー(途方もない誤り)などという使われ方を見ると、「マイクで話すことがスピーカーで増幅され、その声がスピーカーに再び入って増幅を加える」というハウリング現象の説明に、いずれの解釈も当を得ているように思える。

 荒野での狼の反響音が狼の遠吠えを更に誘発し、そこに増幅効果を加えるから、本来、群れで棲む狼が単独行を余儀なくされても、この自己増幅の幻想によって充分に宴を楽しむことができるということなのか。

 しかし、それは支持されにくい物語であるが故に、反響音でしか元気を出せない狼は、その生来のナルシズムの陥穽に嵌ってハウリング・エラーを出来させてしまうのか。 「反響音のナルシズム」であることが自己増幅を誘発し、それが失敗のリピートの下地となって途方もない誤りへと導かれていくのである。

 失敗のリピーターに最も溢れているのは「反響音のナルシズム」であり、最も足りないのは、ナルシズムの暴走を抑えるストイックなリアリズムである。
 
 リアリズムの欠如は、学習能力の欠如へと至る。学習能力の欠如が、リピーターの自我の基盤を脆弱にするのだ。

 リピーターの失敗は、全てその主体の自我の脆さに起因すると言っていい。その自我の脆さにナルシズムが侵入するのだ。自我によって仮構された頼りない物語に、甘美な蜜を必要以上に加えて、存分なまでに自慰的な物語を補完してしまうのである。

 この行程に、シビアな反省が媒介する余地は殆どないだろう。

 反省がシビアであるほど、そこで消耗される熱量の大きさは軽視し難いものになる。

 それ故に、反省を素通りする野心家も多いと聞く。

 しかしその野心家が、やがて自らのサクセスストーリーを持つことができたのは、彼らが一様に、反省しないことによって失われずに済んだエネルギーを、彼らの野心の対象に手付かずのまま投入できたためであると言うよりも、彼らが単に、失敗を断続的に繰り返すような心理学的背景や、そこに繋がる「反響音のナルシズム」とは無縁であっただけなのかも知れないのだ。野心家とナルシストは、必ずしも重なり合わないのである。

 反省が人間を萎縮させ、その熱量を奪い取ってしまうということは真実であるに違いない。だから子供の溌剌さとは、ある意味で、反省しないことによって保持された原始的熱量であるとも言えるのだ。大人が失った溌剌さが反省の無数の束によって成ったと言うなら、そのリアリズムの文脈もまた、当然の如く、首肯しないわけにはいかないであろう。

 しかし、私を含めた多くの凡人にとって大切なのは、反省なしの哲学を得意げに放って、それを実践することなどでは断じてない。

 反省のスキルを身にまとうこと以外ではないのだ。

 最高のタイミングでその時間を開き、上手に熱量転換を図ることで自我をより一層固めていくことである。反省を分散してもいいし、テーマを決めて巧みに自己完結させていくのもいい。反省のスキルの獲得が、私たちを「人生の達人」にするだろう。達人に失敗のリピートは似合わない。「人生の達人」に、ナルシズムは最も似合わないのである。


(「心の風景/失敗のリピーター」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_3254.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)