騙し予言のテクニック

 確信の形成は、特定的なイメージが内側に束ねられることで可能となる。

 それが他者の中のイメージに架橋できれば、確信はいよいよ動かないものになっていく。

 他者を確信に導く仕掛けも、これと全く同じものであると言っていい。

 その一つに、「騙し予言のテクニック」がある。

 「騙し予言」とは、絶対に外れない予言のことである。

 簡単なことである。

 誰が聞いても当たり前であると思う多くのことを、期限を特定せずに、確信的に言い放っていけば、このような心理関係に免疫が形成されていない人々を、ある種の確信に導くことができるであろう。

 例えば、老境に入った著名人を指定して、「この人物は、それ程遠くない未来に不幸な死を迎える」などと、曖昧に予言しておけば決して外さないであろう。

 その人物が10年後に癌で死ねば、大筋のラインは押さえてあるので、後はそこに、「不幸な死」にまつわる物語を適当に塗(まぶ)しておけば予言は完結するのだ。

 ここでのポイントは、「近未来」、「不幸」、「死」という表現の組み合わせにある。

 老境に入った人物の「近未来」の時間は限定的だし、「死」は全て「不幸」なのである。

 だから普通の病死でしかない「死」について、多少の整合性を持つ物語をあしらっておけば、こうした予言は相当程度の説得力を持ってしまうのである。

 万が一、予言したときから当人の死まで、数十年というスパンが生まれても、預言者に抜かりがある訳がない。

 こんな風に言い放っておけば無難であろう。

 「予言を聞き知った人々の祈りの集合力が、眼に見えない『気』のパワーになって本人の体内に入り込み、それが予言の成就を延期させたのである。祈ることは何よりの力なのです」 

 これは、よく聞き覚えのある常套的フレーズである。

 ポイントは、予言のしくじりを祈りの問題に変換させてしまうところにある。

 最後に、表情を変えない件の預言者が、「私も陰ながら祈っていました」などと、厚顔無恥な物言いで嘯(うそぶ)いたとしても、そんなマヌーバーを信じるリスナーが幾人か出現してしまうところが、人の世界の興味の尽きない所以である。

 このようなリスナーの、その過剰なる共感的受容の態度形成のうちに、既に予言の深奥に潜む、一見、不動なる境地に達したいという願いが含まれているという事実こそ切実なのである。

 初対面の相手の心を即興で読んで、相手の喝采を得る、「コールド・リーディング」という最強の武器を持つ占い師は、その時点で既に、「成功した詐欺師」の資格を得たと言っていい。

 「コールド・リーディング」のトラップに嵌った、数多のリスナーが集合する蠱惑(こわく)的なゾーンに、様々な衣裳を纏(まと)った宗教法人が立ち上げられたりすることもまた、止むを得ないことなのであろうか。

 ともあれ、預言者の自信に満ちたパワーに心理を預ける簡便なるシフトは、自己責任による判断の重量感から解放されている分だけ、リスナーの自我を傷つけずに済むだろう。

 予言が有効である間は、イメージと現実との間に「認知の不協和」(注)が起こりにくく、予言を信じた自らの透析能力に酩酊することさえ可能であるのだ。

 これは、恒例となっているプロ野球の優勝予想を見れば分る。

 インサイド情報を入手できない多くのファンは、数多いる解説者が提供してくれる情報を下地にした分析に依拠し、恰もそれが自分の分析であるかのように、当人も半ば信じて、思い入れたっぷりと順位予想する。

 それが的中すれば心地良さを賞味し得るし、仮に外れても、解説者のせいにすればそれで済んでしまうのである。

 このことは、他者の予想や予言に乗るメリットが、限りなくデメリットを上回ることを示している。

 そこに「騙し予言」が侵入するのだ。

 「近々、人々の心胆を寒からしめる災難が起る」という予言は、必ず当るのである。

 かくて、期限を特定したノストラダムスの予言は外れたが、扇動者たちは、例の如く、事前の言い訳を放つことだけは決して忘れなかった。

 期日を特定するあらゆる予言(富士山噴火、オウムのハルマゲドンなど)は、人の微妙な心理の綾を掬い取れない、あまりに倨傲なる「騙し予言」であると言う外はない。

 彼らはそれ故に、状況という名の眩いステージから排除され、消えていく。

 必ず的を外さない、一級の「騙し予言」だけが生き残るのだ。

 かの予言師の面々は、辻の其処彼処(そこかしこ)で今なおカリスマ性を被浴して、占いという隠れた消費を確信的にリードしている。

 このような「世俗の預言者」が、常に一番強いのである。

 では、最強なる「世俗の預言者」は何を語るのか。

 何も語らないのである。

 語ってはならないのである。

 語り過ぎる預言者は、本当のところ、自分が見えない預言者である。

 自分が見えない者に相手が見える訳がない。

 彼らは何かに憑かれたように自己を大きく、遥か遠方まで顕示せざるを得ない、特段に固有なモチーフを持つ者か、それとも過剰なる啓蒙者か、単に傲慢な断言居士に過ぎないのか、或いは、そのいずれの要素をも持つ者か、私には分らない。

 然るに、一級の預言者は未来に踏み込み過ぎることをしない。

 踏み込んでも何も分らないからだ。

 だから彼らは語らない。

 しかし彼らは、全く何も語っていない者のようには決して語らない。

 その素朴で、一見フラットなフレーズの奥に、一定の経験則に裏付けられた、深い人生の識見が垣間見える者のように、彼らは語る。

 彼らは恰も、言葉を更に厳選するための「間」(ま)を尊ぶ者の如く、ゆっくりと、誰でも分るフレーズをそこに放つのである。

 例えばこんな風に。

 「あなたはとても愛情が豊かな人です」
 「あなたは今、幸福であらんことを強く求めていますね」
 「あなたは人から愛されたいと願ったことが、度々ありますね」
 「あなたには辛い経験がありましたね」
 「あなたはその悩みを、本気で克服したいと願っていますね」等々。

 これらは、誰にでも該当する事柄を語ることによって、「相手限定の特定化された情報価値」を引き出す、所謂、「バーナム効果」の心理学で説明できるものだ。

 要するに、全ての語りの内実が万人に共通したものでありながら、「相手限定の特定化された情報価値」を認知する人々のラインが、そこに形成されてしまうのである。

 そのように語られると、自分の感性の豊かさを疑う者がない心理を逆手に取られていることに気づかず、占いに来るような不安耐性の低い人には、結構、有効に反応してしまうということだ。

 「私の心は見透かされている」という心理の負い目が、占い師に対する一種の畏怖感を生み出すことで、早くも心理的な上下関係が、そこに形成されてしまうのだ。

 「世俗の預言者」の前で自我を裸にした者は、自らが抱え切れぬ負荷を背負って欲しいという懇望の強度によって、かの者への関係の依存性が定まるのである。

 そんな不安耐性の低い人々は、「世俗の預言者」から、一体何を手に入れるか。

 確信か。

 そうではない。

 人々が、「世俗の預言者」から受け取る最大のものは「安心」である。

 人々は辻の一隅で、「安心」をこそ手に入れたいのである。

 この消費は、確信もどきで、「安心」の売買を成立させ得る癒しのビジネス以外ではないのだ。

 癒しのビジネスの成功の秘訣は、何も語らないところにあった。

 何も加えないところにあった。

 「辻占い師」は、「世俗の預言者」という名のカウンセラーであったのだ。

 だから彼らは強いのである。

 だから人々は切実だったのである。


(注)フェスティンガー(アメリカの心理学者)ガ提起した「認知の不協和の理論」とは、自分が信じる考えや行動に、それと全く異なった考え方が侵入することによって生じる混乱を解消するために、いずれかの考え方に立つことで不協和を解決しよう、人間の態度形成についてのという仮説。そこで彼は、決定の重要度が大きいほど「不協和は大となる」という仮説を実験的に検証した。


(画像は、獅子の口の中に手を挿し入れることで手相を占う、ローマの有名な「真実の口」」をモチーフにした業務用占い機。これは高尾山にある)
 
 
(心の風景 「騙し予言のテクニック 」 より)http://www.freezilx2g.com/2010/10/blog-post_7164.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)