日常性の危ういリアリズム

  この国でベストワンの映像作家を選べと言われたら、私は躊躇なく「成瀬巳喜男」の名を挙げる。

  確かにこの国には、成瀬より名の知られた巨匠級の映像作家がいる。溝口健二黒澤明小津安二郎の三氏である。三氏とも極めて個性的な映像世界を構築し、世界でも有数の知名度を誇っている。それぞれの映像世界には、最高到達点を示すようなマスターワークが存在するのも事実である。丁寧に作られた彼らの記念碑的な作品は、紛う方なく、日本の映像表現力のレベルの高さをも検証しているであろう。
 
 それにも拘らず、私が成瀬巳喜男の映像ワールドに大きく振れていくのは、成瀬が日常性を描く作家だからである。

 それも小津安二郎のように、中流家庭の日常性ではなく、普通の庶民の等身大の人生と生活を、普通の日常性がしばしばそうであるように、周辺状況の微妙な変化に揺すられながら秩序に向かって、その不安含みの自我を、丹念に、且つ、変に尖ったような描写の嘘臭さがないリアリズムによって、淡々と描いていった職人芸的味わいが、成瀬の映像群にはあるからなのだ。

 その映像群の中で表現されたキャラクターは、意志薄弱であったり、だらしなかったり、狡賢(ずるがしこ)かったり、些細なことで悩んだり、変化の波に乗れなかったり、或いは、その波に乗りやすかったり、人を騙すときにも確信的でなかったり、悩みつつ裏切ったりするような、通常は善良なのだが、状況の変化で抑制されていたエゴイズムが浮き上がっていくといった、巷間、ごく普通に見られる人物像ばかりであった。まさに私たちの日常のさまが、そこに投影されていると言っていい。
 
 成瀬ワールドには、当然の如く、スーパーマンは出てこない。

 そこには「赤ひげ」もいなし、「椿三十郎」もいない。「悪い奴ほどよく眠る」のように、悪と対決する正義漢もいない。「東京物語」の父親のような、何か禅僧のように、妻の死を静かに受容する悟りの境地にある人物とも出会えない。或いは、「浪花悲歌」の山田五十鈴のように、近代的自我を声高に主張する娘もそこにいない。

 そこにいるのは貴方であり、私であり、私の友人であり、貴方の隣人である。だから成瀬映画は照れ臭いのであり、しばしば、鏡を見ているようでうんざりさせられたりもする。そこでは滅多に夢心地になれないし、自分が知らないゾクゾクする刺激にもあまり出会えない。
 
 「浮雲」の、腐れ縁のような男女の澱みに二時間もつき合わされれば、滅入ってくる人も出てくるだろう。決断できない男に、振り切れない女がいて、その女にとって単に離れ難さの故に、繋がっているのかどうか分らないような関係がだらだら続いていて、そこに生産的な推進力の欠片も見られないのだ。

しかしこんなだらしなさが、私たちの生活のある種の実相を集約していて、誰もそれを簡単に蹴飛ばせないのである。

 大体、人間は、自分の中にあって、自分がひどく嫌う態度や性格を他人の中に見てしまうと、その他人に対する嫌悪感が増幅してしまうようなところがある。成瀬映画とは、そのような等身大の鏡面の役割をしばしば果たすのだ。だから一層切実なのである。その切実さの魅力が、そこに過不足なく上手に詰まっているのだ。
 
 近年のハリウッドの、極端に大袈裟で、物々しくて、ふんだんに予算を掛けた(例えば、「タイタニック」の一分の映像で、キアロスタミ監督の「桜桃の味」が何本も製作できてしまう、この信じ難き落差)騒々しい映像群を考えて見たらいい。

 三時間もの大作にしたにも拘らず、人間の生と死の問題に全く肉薄できていなくて、好きな女を救い出す殉教のスーパーマン映画で流し切った、「タイタニック」の馬鹿馬鹿しさは言うに及ばず、序盤のオハマビーチの迫真の映像の寡黙さで突き抜けられなかった「プライベート・ライアン」や、けばけばしいだけの「恋に落ちたシェークスピア」など、そのあまりの過剰さは、殆どハリウッドの痼疾(こしつ)と言っていい。

 ―― 因みに、私の「人生論的映画評論」の中にチョイスされた作品群は、批判的対象となった映像も少なくないが、それらを含めてアメリカ映画が抜きん出ているのは事実である。

 しかし私がチョイスしたアメリカ映画の傑作は、大抵、「予定調和のハッピーエンド」、「展開の非リアリズムと、描写のリアリズム」、「スーパーマン的な英雄譚」、「適度なセックスと、過剰なバイオレンス描写」、「善悪二元論的物語展開」、「危機克服の劇的なストーリーライン」、「娯楽至上主義」等の殆ど鋳型にはまったかのような、所謂、「ハリウッド文法」とは無縁なラインアップになっている。要するにそれは、「面白ければ何でもいい」という類の作品とは馴染まない私自身の嗜好性を、色濃く反映させた映像であるということだ。

 ―― ともあれ、映画の最も重要なシーンですら、観客の反応に合わせて撮り直してしまう(「危険な情事」など)ほど、娯楽と商売オンリーに徹し切るハリウッド精神の過剰な遣り切れなさに、今更クレームをつけても詮ないことだが、少なくとも、成瀬の映像は、このハリウッドワールドの対極にあることだけは確かである。

 ハリウッドに豊穣なものは、しばしば黒澤にも豊穣であるが、ハリウッドに最も欠けているものを豊穣に持つ映像こそ、成瀬の映像なのである。

 永く成瀬映画と付き合っていて、気が付いたことがある。

 成瀬映画はその対極にある、典型的なハリウッド映画のように、不必要なまでに夢を与えてくれる映像ではないが、しかし、その日常性の危ういリアリズムの展開は、私たちにしばしばヒットする危うさに充分脈絡して、私たちの人生を様々にシミュレートし得る宝庫にもなるということだった。

 人生の「仮想危機トレーニング」が、そこでは充分に可能なのだ。だからこそ、成瀬映画は切実なのである。        
 
 
(心の風景 「日常性の危ういリアリズム」 より)http://www.freezilx2g.com/2009/01/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)