どれほど辛くても、これをやっていれば、少しは辛さを忘れられるというレベルの辛さなら、軽欝にまで達していないのかも知れない。
忘れられる辛さと、忘れようがない辛さ。
辛さには、この二種類しかない。
楽しみを持つことで辛さを忘れられる者を、「躁的防衛者」と言う。
多くが、この類の人々だ。
辛さを忘れるためだけの娯楽を決して揶揄してはならない。
それを揶揄するほど私たちは強かったのか。
文化の存在価値の一つがそこにあることを、私たちは安直に否定すべきでない。
私たちは実際のところ、まだ死にたくないから生きているだけなのかも知れない。
その事実の重量感を、決して粗略に扱ってはならないのだ。
だからこそ、辛さの忘却が不可避なのだ。
雄々しく立ち上げることだけが人生の輝きではない。
辛さと娯楽を内側で安定的に共存させる能力の高さこそ、幸福をミスリードしない者の小さな輝きなのだ。
それでも人は生きていく。
とりあえず、今、死んだら困るから生きていく。
死ぬに足るだけの理由がないから生きていく。
時代の、眼に見えない移ろいの中で生きていく。
始まりがあって、終りがある。
そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な日常性を巡って、巡って、巡り抜いて、それでも、そこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。
人生は所詮、なるようにしかならないのだ。
忘れられる辛さと、忘れようがない辛さ。
辛さには、この二種類しかない。
楽しみを持つことで辛さを忘れられる者を、「躁的防衛者」と言う。
多くが、この類の人々だ。
辛さを忘れるためだけの娯楽を決して揶揄してはならない。
それを揶揄するほど私たちは強かったのか。
文化の存在価値の一つがそこにあることを、私たちは安直に否定すべきでない。
私たちは実際のところ、まだ死にたくないから生きているだけなのかも知れない。
その事実の重量感を、決して粗略に扱ってはならないのだ。
だからこそ、辛さの忘却が不可避なのだ。
雄々しく立ち上げることだけが人生の輝きではない。
辛さと娯楽を内側で安定的に共存させる能力の高さこそ、幸福をミスリードしない者の小さな輝きなのだ。
それでも人は生きていく。
とりあえず、今、死んだら困るから生きていく。
死ぬに足るだけの理由がないから生きていく。
時代の、眼に見えない移ろいの中で生きていく。
始まりがあって、終りがある。
そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な日常性を巡って、巡って、巡り抜いて、それでも、そこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。
人生は所詮、なるようにしかならないのだ。
(心の風景 /それでも人は生きていく 文学的な、あまりにも文学的な )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/05/blog-post_161.html(7月5日よりアドレスが変わりました)