「強制的道徳力」から解放された「家族内扶助」の「物語」 ―- 情緒的紐帯を失った「家族」の現在

イメージ 1貧しくても子供を多く産むことの利益は、「養育費」というコストを上回る何か、即ち、単に「愛情」の対象を持つことの喜びのみではなく、その対象が貴重な「労働力」となり、加えて、自らの「老後の世話」を頼むに足る存在性として、その家族関係の内に、世代間継承の不文律が予約されていたからである。

 然るに、生活に一定のゆとりを持ち、且つ、個々の私権が保証される社会の扉を開いてしまって以来、子供を持つことの利益要件から、「労働力」と「老後の世話」という二つの構成因子が消滅してしまった。

 そこで残された利益が、単に「愛情」の対象性のみになったとき、一切は「我が子に愛情をどこまで持ち得るか」という、その固有なる関係の情緒性の濃度に依拠することになったのである。

 もし何某かの形成的な因子によって、関係の情緒性の濃度が決定的に稀薄であったなら、子供を産んだことの利益は剥落し、そこに浮遊する悔いの感情を否定するための矛盾した行為が、子供を産んだ貴方の内側を執拗に甚振ることになるだろう。

 それ以外にない育児文化の黄金律が、呆気なく瓦解した現在、かつて天下無敵であったと信じたに違いない貴方は、もう自分のサイズを逸脱した、「母性」という名の決定力に縋りつけなくなってしまったのだ。

家族内介護の限界が露呈して、今や第三者機関への依存なしに幸福家族の延命が困難になってきた。

家族の相互扶助精神の衰弱は、私権の確立の定着が確立した家族の、その構造的欠陥を浮かび上がらせているのだ。

 ここでの家族は、情緒的求心力しか生命線がない。

情緒の結合力に少しでも皹(ひび)が入れば、それを埋める物語の補填なしに、一気に解体に向かう危うさを内包する。

 私たちは今、情緒という最後の砦によって、「悠久の家族」という物語に必死に縋っている。

「家族内扶助」を、「強制的道徳力」として箍(たが)を締めていたそのコアがなし崩しになれば、情緒の消失が家族の実質的解体に至る。

あれ程勤勉で家族思いであった貴方が重度の認知症者になれば、貴方の家族は自我の連続性を失った貴方を、果たしてどこまで介護し切るだろうか。

 私権の確保を絶対とする、過激なまでに豊かな我々の社会の闇の奥に、「幸福家族」の戦慄すべき脆さが見え隠れしている。

 誰が悪いのではない。

 近代の科学技術文明のお陰で豊かになった私たちは、「自由」の有難みを得たことで「私権」を拡大的に定着させ、「相対主義」のえも言われぬ快感のシャワーを自在に被浴し、自分サイズの「物語」を自在に切り取って生きることが可能になったのだ。

 だから、せいぜい、「強制的道徳力」から解放された「家族内扶助」の「物語」だけは手放すまい。

 
 
(心の風景 /「強制的道徳力」から解放された「家族内扶助」の「物語」 ―- 情緒的紐帯を失った「家族」の現在 )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/07/blog-post.html