未だ覚悟の足りないヒューマニストもどきの、驚くべき腰の引け方

イメージ 1この国の子供たちのアンケートを採っても、「何も欲しくない」という解答が第一になるという社会を、私たちは作り上げてしまった。

この社会を、私たちは二度と手放さないだろう。

私たちの自我に刷り込まれた快感は、加速していく方向にしか動かない。

加速化を求める快感は、必ず、それ以上の快感を求めざるを得ないのだ。
 

快感と快感の僅かな時間の隙間に、飽食は生まれる。

飽食とは、次の快感を手に入れる前の小休止でしかないのである。

 飽食がより高次のレベルの快感を招き入れ、自分たちの感覚器官をますます高感度にしていくとき、これが、快感濃度の異なる現代の子供たちには、累乗効果として作用するに違いない。

大人の高感度の刺激情報が、子供の自我に刷り込まれる一方、子供自身もまた、快感情報を自分の感性で濾過し、それを自我に刷り込んでいく。

現代の子供たちには、最初からこうした情報しか刷り込まれていないのだ。

子供たちには、より低レベルの快感情報には殆ど心を動かされないほどの高感度の反応形成が、それ以外にない必然性によって常態化されているのである。

 そして彼らには、少しばかりの不快情報、例えば、家の中で一匹の蟻 が動き回っている状態ですら許容限界を超えてしまうのだ。

一匹の蚊の闖入(ちんにゅう)は、間違いなく、子供たちの集中力を破壊するだろう。

ところが、その自我が思春期を越えてもなお、その自我の前に、大人が大人であるところの拠って立つ存在感によって立ちはだかれない現実を、殆ど常態化して いるように見える。

この国の不幸の中枢に近い辺りで、なお「大人たちの不在」の延長という重々しい債務が、緩やかに、しかし確実に累積化されていく時間の中に、その澱みの濃度をいよいよ深めているのだ。

国家的・文化的強制力を失った現代社会は、子供たちに、「自分のために勉強しろ」としか言えなくなっているのだ。

このとき、「自分のためならやらなくてもいい」という類の、子供の我が儘なトリックに反論できない大人が多く存在するほどに、もはや、教育という名の文化的強制力を持たなくなってしまったのである。

 子供の自我は大人の自我に組み換えられねばならないという、当然過ぎるほどの理屈に、「どうして?」という大人が出現する近代社会とは、一体何なのか。

 「子供の自由」に対する大人社会の、その拠って立つ倫理的混乱が極まってしまったのだ。

子供と大人の相違は、何よりも「自己決定権」を持ち得るか否かという点にあり、そこには、何ら情緒的な解釈など入り込む余地などないのである。

これが、私たち民主社会の、一つの毅然としたルールでなければならない。

子供と大人は享受する権利が異なるという厳然たる事実を認めない限り、子供の我が儘な暴走を制約する、一切の法的根拠が済し崩しにされてしまうのだ。

現代社会の混乱は、このあまりに当然過ぎる文脈の共有の顕著な劣化によって惹起されているのである。 
 
 
 
(心の風景 /未だ覚悟の足りないヒューマニストもどきの、驚くべき腰の引け方 )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/08/blog-post_2841.html