冒険者たち(’67)  ロベール・アンリコ <「男二人+女一人」という「友愛」のミニ共同体の蠱惑的な相貌性>

イメージ 1 1  致命的な破綻の中から拾い上げた冒険行での匂い立つ青春の炸裂



冒険とは、恐怖指数(投資リスク)の高さを抱懐しつつ、特定的な目的の遂行の故に、非日常の状況の渦中に我が身を全人格的に投入すること。

これが、冒険に対する私の定義。

物語は、この冒険の挫折を、観る者に提示することから開かれる。

この冒険の主体は三人。

向う見ずの若いパイロットのマヌー、フォーミュラーカーの新型エンジンの開発に取り組む中年エンジニアのローラン。

若さ故の軽薄さを有するマヌーに対して、地道な仕事の継続力に支えられたローランの性格の相違があっても、実現困難な夢を捨てないメンタリティにおいて、似た者同士の彼らには相互補完的な友情関係が形成されていた。

因みに、「友情」とは、私の定義によると、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という構成要件を包含するもの。
 
これらの要件が、この二人には均衡良く保持されていたのである。

とりわけ、「夢追いの心情的共有」という心理的因子は、二人の男の「友情」の推進力となっていたと言えるだろう。

ところが、この男たちの「友情」に、一人の若い彫金アーティストが闖入(ちんにゅう)して来たことで、その武骨な風景に鮮やかな彩りが添えられるに至る。

その名は、レティシア

美人の闖入によって形成される関係には、二人の男の「友情」に特段の破綻を招来させることがなかった。

後述するが、レティシアの距離の取り方がクレバーであったからだ。

そんな三人が、ほぼ同時に、冒険=夢の破綻を経験する。

中でも、若い二人の冒険=夢の挫折には、深傷を負った者の苛酷さがあった。

深傷を負った二人の冒険=夢の挫折。

パイロットのマヌーのケースは、パリのエトワール凱旋門の下を飛行機で潜り抜けるという途方もない挑戦行為が、騙された果ての企画だったことで、パイロットの命であるライセンスを没収されたこと。
 
また、彫金アーティスト・レティシアケースは、全身全霊を賭けて生命を吹き込んだ彫金アートの個展への評価が、「個性がない。ありきたりな美学だ」という、アーティストのアイデンティティを深々と侵蝕し、意欲を阻喪させるに足る、これ以上ない酷評を受けたこと。

とりわけ、レティシアにとって、身を置く場所の喪失感というシビアな現実を招来するに至り、それは殆ど致命的な冒険=夢の破綻と言っていい何かであった。

この破綻の中から拾い上げた、途方途轍もない冒険行。

それは、全てを失った若いパイロットのマヌーが、ローランと組んだギャンブルのしくじりによる持ち金の損失を補填するばかりか、呆れるほどに、一攫千金を狙った大博打への冒険行だった。

この冒険行にレティシアが吸収されていったのも、彼女の自我の空洞を補填する内的必然性がもたらしたもの。

かくて、繰り出したコンゴ行き。

コンゴ動乱に紛れて莫大な財宝を手に入れ、脱出を図った富豪の軽飛行機がコンゴの海に墜落したという、マヌーを騙した保険会社員の情報が確度の高いものであると確信したマヌーのイニシアチブによって、そこだけは変わらない3人の「夢追い人」は、極めて恐怖指数の高い冒険行を愉悦するのである。
 
 
(人生論的映画評論・続/冒険者たち(’67)  ロベール・アンリコ <「男二人+女一人」という「友愛」のミニ共同体の蠱惑的な相貌性>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/07/67.html