1 “逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切った秀作
「スケアクロウ」 ―― 紛う方なく、完璧な映画だった。
この作品こそ、先述した「ごく一部の例外的な秀作」の中の究めつけの一作であった。
それは、ニューシネマの最高到達点を示す記念碑的映画ではなかったか。少なくとも、私はそう思っている。
ニューシネマの不必要なまでの濫作の中にあって、この映画だけが、“逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切ったのである。
殆ど音楽に頼らず、感傷に全く流されることなく、余分な描写を削り抜いて到達した映像世界は、極めて純度の高い人間ドラマに結実したと言っていい。
無論、主役となった二人の役者の群を抜いた演技力なしに、この作品の表現世界に於ける成功は叶わなかったかも知れない。
確かに、アル・パチーノの演技は凄かったが、ライオン役をダスティン・ホフマンに替えても表現の質は落ちなかったかも知れない。しかし、マックス役のジーン・ハックマンに替わる俳優が、当時存在しただろうか。
「スケアクロウ」 ―― 紛う方なく、完璧な映画だった。
この作品こそ、先述した「ごく一部の例外的な秀作」の中の究めつけの一作であった。
それは、ニューシネマの最高到達点を示す記念碑的映画ではなかったか。少なくとも、私はそう思っている。
ニューシネマの不必要なまでの濫作の中にあって、この映画だけが、“逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切ったのである。
殆ど音楽に頼らず、感傷に全く流されることなく、余分な描写を削り抜いて到達した映像世界は、極めて純度の高い人間ドラマに結実したと言っていい。
無論、主役となった二人の役者の群を抜いた演技力なしに、この作品の表現世界に於ける成功は叶わなかったかも知れない。
確かに、アル・パチーノの演技は凄かったが、ライオン役をダスティン・ホフマンに替えても表現の質は落ちなかったかも知れない。しかし、マックス役のジーン・ハックマンに替わる俳優が、当時存在しただろうか。
「フレンチ・コネクション」のジーン・ハックマンなくして、「強がって生きる孤独な男の哀切」をあれほどまでに表現できたであろうか。
人は、自分の中にあって、自分が嫌う性格的部分を相手の中に見つけたとき、大抵、その相手を嫌うものだ。
そこに、友情は生まれない。
そして人は、自分の中になくて、自分が求める性格的部分を相手の中に見るとき、恐らくその相手を好むだろう。
そこに、友情が生まれる可能性が極めて高いのである。
人は、自分の中にあって、自分が嫌う性格的部分を相手の中に見つけたとき、大抵、その相手を嫌うものだ。
そこに、友情は生まれない。
そして人は、自分の中になくて、自分が求める性格的部分を相手の中に見るとき、恐らくその相手を好むだろう。
そこに、友情が生まれる可能性が極めて高いのである。
―― 私が「洋画NO.1」と絶賛する、最も感銘深い映像の、そのストーリーラインを追っていこう。
カリフォルニアの州道の一隅。
そのブルースカイの空の下に広がるあまりに殺伐とした風景は、季節の風が冷たく吹きつける荒涼感に充ちていた。少し大袈裟に言えば、「異文化的」な二つの個性が偶発的に邂逅し、しばしば小さな摩擦を繰り返しながらも、本来的に逢着するであろう着地点の辺りで頓挫することを運命づけられたもののようにして、補完的に絡み合った「逸脱者」たちが結んだ友情の、極めて曲線的で人間臭い物語 ―― それが「スケアクロウ」だった。
そこに、二人の男がいる。
彼らはヒッチハイカーのようにして、道路脇でそこを通過する車を待っていた。
偶(たま)さか、通りかかる車は彼らの存在を無視して、平気で男たちを捨てていく。
二人の男は、このときまだ、お互いの名を知る由もない。
いつまで待っても車が通過することなく、二人は時間を持て余し気味だった。
大男の方はうな垂れて座り込み、小男の方はピョンピョン跳ね上がって、ストレッチ体操をしている。
イメージとしてはバックパッカーに近い小男の方は、大男の気を引くべく、ゴリラの真似をしたり、大声で電話で話す振りをしたりして、相互の距離を縮めようと懸命だ。
そんな小男の効が奏したのか、まもなく二人は、小男の持っている最後の一本のマッチを媒介に近づいたのである。
その直後の映像は、二人のヒッチハイカーがトラックの荷台に身を寄せているシーンを描き出した。
ところが、二人がようやくヒッチハイカーとして小さな成功を収めて眠り込んでいたとき、彼らは道路の途中で降ろされてしまうのである。農業用のトラックが、目的地への曲がり角にまで到着したからだ。
やむなく下車した二人は、近くのコーヒーショップで休憩をとった。
こうして二人は、コーヒーを飲み合いながら会話する関係にまで進んでいったのである。これが、異質のキャラクターを持つ二人の関係の交叉の始まりだった。
イメージとしてはバックパッカーに近い小男の方は、大男の気を引くべく、ゴリラの真似をしたり、大声で電話で話す振りをしたりして、相互の距離を縮めようと懸命だ。
そんな小男の効が奏したのか、まもなく二人は、小男の持っている最後の一本のマッチを媒介に近づいたのである。
その直後の映像は、二人のヒッチハイカーがトラックの荷台に身を寄せているシーンを描き出した。
ところが、二人がようやくヒッチハイカーとして小さな成功を収めて眠り込んでいたとき、彼らは道路の途中で降ろされてしまうのである。農業用のトラックが、目的地への曲がり角にまで到着したからだ。
やむなく下車した二人は、近くのコーヒーショップで休憩をとった。
こうして二人は、コーヒーを飲み合いながら会話する関係にまで進んでいったのである。これが、異質のキャラクターを持つ二人の関係の交叉の始まりだった。
(人生論的映画評論/スケアクロウ('73) ジェリー・シャッツバーグ <逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/73.html