炎のランナー('81)   ヒュー・ハドソン <ユニオンジャックの旗の下に包括しようとする意思が溶融したとき>

イメージ 11  鋭角的な攻撃性を輻射して止まない男



1924年のパリ・オリンピックの陸上競技で、英国に二つの金メダルをもたらした実話のランナーを描いた、この著名なアカデミー作品賞の中に、本作の基幹のメッセージとも言うべき極めて重要な描写が2か所ある。

本作の主人公である二人の青年が、オリンピック出場に関わる問題で、英国を象徴する権威に対して、自分の意志を曲げずに堂々と主張するシーンがそれである。

その一人は、ユダヤ人のハロルド・エイブラハムス。

ケンブリッジ大学のキーズ寮に入寮しているハロルドは、パリ・オリンピックを目指しているが、スコットランドで伝道師としての道を歩むエリック・リデルに、イングランドスコットランドの対抗競技会で敗北したショックを契機に、陸上競技のプロのコーチであるサム・マサビーニから連日、本格的な指導を受けていた。

この行為を、二人の学寮長から厳しく批判されたのである。

「学校はアマチュアの道に徹してこそ、価値ある結果が生まれると信じる。君は、ひたすら個人的栄光を求めている」

如何にも教育的配慮を含んだ正攻法の批判のように見えながらも、英国を象徴する権威主義的な物言いに敏感に反応するハロルドもまた、正攻法の反応で返すが、常に権威を笠に着た差別的言辞を先読みしてしまうのだ。

「私はケンブリッジを愛し、英国を愛しています。私が栄光を求めるのは家族のためであり、学校のためであり、国のためです。それがいけないのですか?」
「勝利のためには手段を選ばずか?」
「いいえ。ルールには従います」
「君のやり方は下賤だ。エリートのやり方がある」

「下賤」という表現に、ハロルドは遂に切れてしまった。彼の先読みのスキルは、経験的に外さないようである。

「お二人とも、勝利を望んでいる。神の如き無作為の勝利を。それは子供の運動会で言うことです。偽善に過ぎない。私は能力の探求に努め、自分の力に賭けます」

一介の学生に過ぎないハロルドは、学寮長に向かって、「子供の運動会」、「偽善」とまで言ってのけたのだ。

「あれがユダヤ人というものだ」

この一言は、ハロルドが退室した後の学寮長の本音。
 
思えば、キーズ寮に入寮した1919年、ハロルドが、創設来700年もの間、成功者を一人も輩出していない「カレッジ・ダッシュ」(注1)に挑戦して、初成功を収めたときのこと。

「やはりユダヤ人は『神に選ばれた民』なのか」

キーズ寮長は、そう言ったのだ。

従って、ハロルドには、他人の言動に対して、常に先制的に身構える振舞いが身についてしまっているのである。

以下は、ケンブリッジの陸上仲間である、親友のオーブリーに洩らした本音。

ユダヤ人であるということは、痛みと絶望と怒りを感じることだ。屈辱を感じることだ。握手の冷たさを感じることだ。父は英国を愛し、息子たちを真の英国人にしたと思い込んでいる。父は財を成し、英国最高の大学に在学中。だが、父は一つ忘れている。英国はキリスト教徒とアングロサクソンの国であり、彼らが権力の回廊を占め、嫉妬と憎悪で他の者を締め出している。僕は偏見に挑戦する。偏見を持つ全ての人に、跪(ひざまず)かせてやる」

鋭角的な攻撃性を輻射して止まないハロルドの自我は、心優しいオーブリーと比較すると、顕著な特性を露わにしていた。
だからこそ彼は、「偏見に挑戦する」という、負けん気の強い一群の若者らしい覚悟をもって陸上競技にのめり込み、そこで抜きん出た活躍をし、パリ・オリンピックの英国代表に選ばれて、そこで金メダルを獲得することを本気で考えていたのである。


(注1)約200mの距離を、時計の下の印から中庭を一周し、時計が12時を打ち終わるまでにダッシュして戻る、トリニティ・カレッジの儀式。
 
 
(人生論的映画評論/炎のランナー('81)   ヒュー・ハドソン <ユニオンジャックの旗の下に包括しようとする意思が溶融したとき>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/01/81.html