<茨の道を往く男 ― 松井秀喜・2012、或いは「野球のロマン」という物語の脆弱性>

イメージ 11  「鉄の男」という伝説の終焉  の中で



一人の男がいる。

ベースボールプレーヤーとしては決して若くない。

決して若くない、その男の名は松井秀喜

1974年6月生まれだから、2012年9月現在で38歳になるが、昔のように、壊れるまでプレーを継続させられた時代と切れた昨今の野球界では、決して「引退」する年齢ではない。

その松井秀喜が、自らを「裏切り者」と発言してまで、メジャーリーグに挑戦した2年目の頃だったか、私にとって忘れ難いエピソードがある。

左中間が深いことで有名な、ヤンキース球場のレフトを守っていたその男が、ファールを追いかけて、観客席のシートに顔面を思い切り激突し、その顔がバウンドしたのだ。

それをリアルタイムで見ていた私は、「これで連続出場記録が途切れるのか」という思いよりも、その涙交じりの痛々しい表情に心痛を深める感情が先行したことを覚えている。 

その直後、松井の初めてのDL(故障者リスト)入りは間違いないと諦念したが、彼は再びゲームに戻って来たのだ。

「アイアン・フェイス」 ―― これが現地の新聞に載った、松井秀喜に対する最大級の賛辞であった。

その後も松井は、「保育園史上最大の園児と言われた」(ウィキ)ほどに、持って生まれた「がたい」の大きさと恵まれた健康体によって、「鉄の男」としての面目躍如の活躍を繋いでいったので、その小さなエピソードは伝説の彼方に消えていった。

そんな「鉄の男」のタフネスぶりを全く危惧することがない私が、彼のあまりに痛々しい表情を見たのは、忘れもしない、私の事故と同日の、2006年5月11日(但し、日本時間だと12日)だった。

渡米後4年目の、最も心身共に充実していた、未だ現役バリバリのプレーヤーだったときだ。

雨で滑りやすい芝に左手首を引っ掛けて、橈骨骨折(とうこつこっせつ)するに至ったのである。

その瞬間をリアルタイムで見ていたが故に、私の動揺は小さくなかった。

この事故によって、日本時代から続いていた連続出場記録が1768試合でストップするが、それ以上に、後に、左手首に埋め込まれたレントゲン画像でのボルトが示す惨状に言葉を失った。

それほどの大怪我を負った男は、このアクシデントが呼び水となったかのように、次々に襲来する故障に悩まされるに至る。

右膝の故障による手術と、古傷の左膝の慢性的痛みによるDL入り。

シーズン後の左膝の内視鏡手術。

以降、両膝の腫れとの闘いに加わって、太もも痛の発症。

巨体ゆえのハンデが、年齢を重ねるに連れて顕在化してきたのか、30代半ばにして、常に限界説が紙上を賑わすが、それでも松井には、常に、様々に降りかかってくる予測し得ないに対して、如何にそれを収拾し、コントロールでき得るか否かということだけが重要だった。

「コントロール」という言葉を、彼はよく口にする。

例えば、自分に対する他者の評価に対して、「コントロールしようがないものを気にしても意味がない」などという風に使うのだ。

そのことは逆に、自分の努力でコントロールできる事態については、決して諦めずに、その難局に対峙していくという肯定的意志を含意する。

2006年5月11日の、眼を覆わんばかりのアクシデントのときもそうだった。

万全な準備で臨んで、それ以外にない捕球動作に入っても、左手首を橈骨骨折してしまった。

松井秀喜という男は、既に惹起してしまった事態が包含する現実を、ありのままに受容する。

万全の準備で臨んでも、このような大怪我を負うリスクが、自分が選んだ職業には多分に存在することを知悉(ちしつ)しているが故に、負ってしまった由々しき大怪我に対して、如何に合理的且つ、ポジティブに対峙するかというかという選択肢以外に存在しないことを、この男は認知しているのだ。

「鉄の男」という伝説の終焉の中で、その由々しき経験の中で男が得たものの大きさは、ある意味で、そこで失ったものの大きさと等価になるかのように、未知のゾーンに捕捉された者の危うさに決して呑み込まれることのない、充分に、男の「高自己統制能力」が可能な世界だったと言えるかも知れない。

一切は、そこから開かれていったからである。
 
 
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