劒岳 点の記('09) 木村大作 <「仲間」=「和」の精神という中枢理念への浄化の映像の力技>

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 序  「誰かが行かねば、道はできない」 ―― 本作の梗概



 「誰かが行かねば、道はできない。日本地図完成のために命を賭けた男たちの記録」

 この見事なキャッチコピーで銘打った本作の梗概を、公式サイトから引用してみる。

 「日露戦争後の明治39年、陸軍は国防のため日本地図の完成を急いでいた。陸軍参謀本部陸地測量部の測量手、柴崎芳太郎(浅野忠信)は最後の空白地点を埋めるため、『陸軍の威信にかけて、劒岳の初登頂と測量を果たせ』という命令を受ける。


 立山連峰に位置する劒岳は、その険しさを前にして、多くの優秀な測量部員をもってしても、未踏峰のままであった。創設間もない日本山岳会も、海外から取り寄せた最新の登山道具を装備し登頂を計画しており、『山岳会に負けてはならぬ』という厳命も受ける。

 前任の測量手・古田盛作(役所広司)を訪ねた柴崎は、あらためて劒岳の恐ろしさを知るが、アドバイスとともに案内人として宇治長次郎(香川照之)を紹介される。新妻・葉津よ(宮崎あおい)の励ましを受けて富山に向かった柴崎は、宇治と合流、調査のために山に入ったが、謎めいた行者の言葉『雪を背負って登り、雪を背負って降りよ』以外、登頂への手掛かりすら掴めずに帰京する。

 そして翌明治40年(1907)、測量本番の登頂へ。柴崎・宇治に、測夫の生田信らを加えた総勢7人で、池ノ平山・雄山・奥大日山・釖御前・別山など周辺の山々の頂に三角点を設置し、いよいよ劒岳に挑む」(公式サイトより引用/筆者段落構成)



 1  入魂の表現力のうちに隠し込んで浄化させた映像総体の力技



 「昨今のチャラチャラした日本の男たちは・・・」、「金融資本主義に突っ走る、今の日本社会の荒廃は・・・」、「CGなどの表現技巧に依存するハリウッド映画の物真似は・・・」等々という説教を喰らいそうな映画だが、それでも本作が、「キャッチコピー」だけの欺瞞的なマヌーバーに堕さなかったのは、本作の基幹メッセージを、厳しく苛烈な自然に呑み込まれながらも、若い俳優たちの入魂の表現力のうちに隠し込んで浄化させたかに見える、殆ど神懸った映像総体の力技を表現し切ったからである。

 ここで言う、基幹メッセージとは、以下の要約の中で把握されるように思われる。
 
 その1 本作は映画それ自身よりも、映画製作そのものを目的としたかのようなメッセージを含んでいること。

 これは、「日本の映画とは何か」という作り手の強い問題意識の反映であるだろう。

 その2 「日本の男たちは誇りを持って、自分の仕事を引き受けているのか」という、曖昧模糊とする厄介な問題提起。

 その3 「人間と自然の関係はどうあるべきなのか」という、些か手垢に塗(まみ)れながらも、「現代人が失った自然への畏敬の念」の復元を謳ったメッセージ。
 
 その4 「自分、或いは、自分たちさえ良ければ、それで満足」という、「スポーツの遊戯化」に象徴される、「レジャーとしてのスポーツ登山」への批判的メッセージ。

 その5 「仲間」=「和」の精神の強調である。
 
これが最も重要なメッセージと思われるのは、1から4までのメッセージが、この5のうちに包括されているが故に、本作を根柢において支え切っている理念であると思えるのである。

 以下、これらのメッセージの含意を考えていきたい。
 
 
 
(人生論的映画評論/ 劒岳 点の記('09)  木村大作 <「仲間」=「和」の精神という中枢理念への浄化の映像の力技>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/01/09.html