息もできない(‘08) ヤン・イクチュン <インディーズの世界から分娩された、「熱気」と「炸裂」に充ちた「究極の一作」>

イメージ 11  インディーズの世界から分娩された、「熱気」と「炸裂」に充ちた「究極の一作」
 
 
さて、本作の「息もできない」のこと。

この映画のお陰で、私は、主人公のチンピラが、刑務所から出所した直後の父に、血糊が拳につく程の暴力シーンのカットを見て、自らが犯した青春期の記憶をまざまざと想起した。

暴力による「痛み」を、これほど感じさせてくれる映画に出会って、これは暴力のリアリズムのうちに、無抵抗な者に対する理不尽極まる暴力の怖さを指弾した映画でもあると、私なりに読解した次第である。

加えて、物語構成において、主人公を中心にした登場人物たちの人間関係の、その狭隘なサークル化の交叉が構成される瑕疵によって、残念ながら相当程度の偶然性への依拠を必然化したり、或いは、主人公が二人の警官を殴り飛ばしても、面が割れているのに捜査された気配すらないばかりか、その主人公を殺害した犯人への警察の捜査が描かれぬまま、無傷の状態でヤクザ稼業を続けていたりするという看過し難い粗雑さが気になったものの、これを「映画的作画」と括ることでスルーすれば、ここ近年に観た映画の中で、本作の訴求力の強靭さに絶句する思いだった。
 
ポン・ジュノ監督の「母なる証明」(2009年製作)の完成度の高さには到底及ばないが、主人公を監督自身が演じたことで、「自分は家族との間に問題を抱えてきた。このもどかしさを抱いたままでは、この先生きていけないと思った。すべてを吐き出したかった」(公式HPより)という作り手の熱気が、映像総体から存分に醸し出されていて、炸裂し、いつもギリギリのところで飽和点に達しつつある危うさを内包させているから、はち切れんばかりの供給熱量の間断ないパワーの集合が、荒々しく連射されてくる画像を支配し切れているか否かなどという問題を末梢化し、そんな狭隘な映画文法を簡単に蹴飛ばしてしまうような、「究極の一作」と出会うチャンスは滅多にないと思える何か、言わば、抜きん出た完成度の高さを誇る「母なる証明」と一味違う種類の何か ―― それが、この映画には詰め込まれていた。

凄い映像が次々に現出する韓国映画のパワーが、遂に、インディーズの世界からも分娩されたのである。



2  情動系のラインの中で「共通言語」が形成されていく関係が開かれて



「暴力」の本質とは何だろうか。

まず、「暴力」とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。

これが、「暴力」に対する私の定義である。

この把握に則って、「暴力」の本質を定義すると、「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くこと」であると言えるだろう。

この暴力をフル稼働させて、相手を平伏(ひれふ)させ、屈服させ、そこに鋭角的に尖り切った権力関係を仮構する。

そのような権力関係によってしか他者と繋がり得ない男の職業は、債権取り立て屋。

それは、他者と言語的コミュニケーションを結ぶことを極端に苦手とする男の性格に相応しい、殆どそれ以外にないヤクザ稼業である。
 
「シーバルロマ」(クソガキ、クソ野郎、アホ、クソアマ等々)という悪態と、身体暴力という極限的な非言語的コミュニケーションによって補填されてしまうから、男はいつまでたってもヤクザ稼業から身を洗えないし、その意志もまるで見えないのだ。

「殴られてばっかでいいのかよ。このアバズレ」

これは、相手が簡単に屈服することをも認知しない、ヤクザ稼業の男の常套句。

印象深い冒頭シーンでのことだ。

女に暴力を振う男の荒んだ現場に通りかかったヤクザ稼業の男は、見ず知らずの男を痛めつけた後、救われたと思った女にも容赦せず平手打ちにする。

そのとき放ったのが、ヤクザ稼業の男の常套句である。

それは、他者と言語的コミュニケーションを結ぶことを極端に苦手とする男の、それ以外にない言語的、且つ、非言語的交通手段なのだ。

そんな男が至るところで敵を作り出し、怨嗟の対象にもなるが、男にとって、このような形によってしか、世俗との交通を円滑に果たせない心の闇が、その内側深くに塒(とぐろ)を巻いているが故に、男の歪んだ自我は、その歪みを全く修復させることなく延長させてしまっているのである。

 
 
(人生論的映画評論・続/息もできない(‘08) ヤン・イクチュン <インディーズの世界から分娩された、「熱気」と「炸裂」に充ちた「究極の一作」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/10/08.html