天国と地獄('63) 黒澤 明 <三畳部屋での生活を反転させたとき>

イメージ 11   緊張感溢れるサスペンスフルな描写の連射



  「ナショナル・シューズ」という製靴メーカーの権藤専務は、息子を誘拐したという電話を受けた。ところが、誘拐犯人である電話の男が誘拐した少年は、権藤家の運転手の息子。開き直った誘拐犯人の要求は、運転手の息子の命の代償に三千万円を払えというものだった。

 煩悶する権藤は、結局、金を出すことになり、その後の展開は、権藤邸に張り込んだ刑事たちとの、緊張感溢れるサスペンスフルな描写に繋がっていく。

 特急列車からの札束入りのバッグを河川の堤で受け取った犯人は、刑事たちをを嘲笑することで、逆鱗に触れた刑事たちとの、苛烈な逮捕劇の顛末がリアルなタッチで描かれていくというのが、プロットの基幹ラインである。

 誘拐された少年は無事に戻ったが、それでなくても、孤立していた権藤は会社を追われることになった。

 事件の責任を感じた運転手は、無事に生還した息子の書いた絵から、監禁された場所が江の島近辺と判断して、毎日息子を伴って、江ノ島通いの日々を過ごす。その努力が実って、刑事たちは遂に犯人の隠れ家を探し出すが、その家には男と女の死体が置き去りにされていただけ。麻薬によるショック死だった。

 まもなく、ある病院の焼却煙突から煙が立ち昇っているのを見た刑事たちは、現場に急行した。(金を入れた鞄には、それが燃やされた際に特殊な煙が出る仕掛けが為されていたのである)

 遂に犯人が特定され、、苦労の末に逮捕するに至った。映像のラストは、犯人と権藤との直接対決が待っていたという落ちで、エンドマーク。

 犯人竹内が、彼を尾行していた刑事たちの執念によって捕縛されたという、これだけの作品だったら、単に「面白いだけの映画」として、30分も経てば忘れてしまうだろう。良かれ悪しかれ、これが「面白いだけの映画」の宿命なのだ。

 まして多くの黒澤作品は、いつも何かそこに言いたいものを持っていて、しかもそれを、叫ぶようにしてフィルムに鏤刻(るこく)してくるから、彼の作品は常に平易なのである。およそ黒澤作品には、寡黙な映像が似つかわしくなく、いつもてんこ盛りで、しばしば怒涛の如きメッセージが放たれていく。

 人間とは、社会とは、人生とは・・・という問いに、作り手自らが、何かいつもその作品の中で答えを出してしまうような、言わば、聖職者とか教師のような説教が含まれることがしばしばあり、それが私には厄介なのだ。

 そんな厄介さの片鱗が、「天国と地獄」という著名な作品にも覗えるものの、ラストシーンのメッセージ性は、俳優の演技力と、そこに勝負を賭けたような心理描写の展開によって、一定の説得力を持つことができたと言える。



 2  幻想と戦った男のあまりに悲痛な心の風景



 ―- この稿では、上述した一点にのみテーマを据えて言及する。
 
 犯人竹内の心情は屈折しているが、その屈折のさまにはリアリティがある。その地獄の生活風景から覗く、権藤邸の風景は、その周囲に広がる庶民階層との、「適正」な距離感のとれない生活のさまを、あざ笑うかのように屹立している。

 インターン(注)である竹内は、インテリとしての自分の立場にあまりに不相応な、自らの三畳部屋での生活を反転させたとき、彼の視界に映る権藤邸は、その傲慢な存在性によって憎悪の対象にしかならなかった。まさしくそれは、彼のインターンとしての不安定な身の置き方によって、その感情を加速させたに違いないと想像される何かであるに違いない。
 恐らく彼は、実母(ラストシーンで、唯一語られる)の身を削るような苦労によって大学を出た後、何のコネもなく、厳しいインターン生活を強いられる中で、その成育史に貯えられた膨大な野心やストレスの出口を失ったとき、そのエネルギーの尖った部分が権藤邸に向けられたと想像できる。(但し、このような犯人の心情描写が映像では全く欠落しているので、ラストシーンの設定が多分に浮き上がってしまった印象は拭えない)
 

(注)医学大学、または医学部の必要なカリキュラムを履修後、国家試験の受験資格を得るために課される実習訓練のことだが、1968年に廃止され、研修医制度となる。


 ともあれ、竹内が起した事件が、彼が標的とする権藤ではなく、そこに仕える運転手の息子を誘拐し、それをネタに権藤を脅迫するという事件であったことは、彼の犯罪が単に営利誘拐の範疇に収まらないことを意味している。

 彼は権藤という実業家を一気に破滅に追い込むというよりも、真綿で首を絞めるような加虐行為によって存分に苦しめ、その悪足掻きのさまを見届けることで、権藤に地獄の苦しみをたっぷり味合わせたかったのであろう。

 しかし、そのような単純な心理に留まらないところに、一つの誘拐事件が内深くに抱えた屈折の様態がある。

 その地獄を味合わせた竹内自身に対する、権藤からの深い恨みへの反転こそ、犯人竹内が切に求めて止まなかったものであるに違いないからである。

 だから彼の犯罪は、屈折した憎悪を起点とし、相互の立場の優劣性を逆転させることで、相手には悔恨の念を、そして自らは、その醜態を確認したときの快楽を手に入れるという、どこまでも黒々とした感情に支配されていたと言えるのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論/天国と地獄('63) 黒澤 明 <三畳部屋での生活を反転させたとき>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/63.html